織田信休とは? わかりやすく解説

織田信休

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/08 13:34 UTC 版)

 
織田信休
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 延宝6年8月17日1678年10月2日
死没 享保7年11月29日1723年1月5日
改名 信恒(初名)、信休
別名 右近(通称)、信辰
墓所 兵庫県丹波市柏原町東奥の織田家廟所
官位 従五位下壱岐守山城守近江守
幕府 江戸幕府
主君 徳川綱吉家宣家継吉宗
大和宇陀松山藩主→丹波柏原藩
氏族 織田氏(信雄系高長流)
父母 織田信武徳川光友の養女・智姫
兄弟 信休、易麻呂、松平義昌養女
正室:なし
側室:生田氏
信朝信旧、長卿、郁
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織田 信休(おだ のぶやす)は、江戸時代前期から中期にかけての大名大和国宇陀松山藩の第5代藩主、のち丹波国柏原藩の初代藩主。通称は右近。官位従五位下壱岐守山城守近江守。高長系織田家4代。

生涯

延宝6年(1678年)8月17日、第4代藩主・織田信武の子として江戸において誕生した。

元禄3年(1690年)2月15日、第5代将軍・徳川綱吉御目見する。元禄6年(1693年)12月23日、従五位下・壱岐守に叙任する。元禄8年(1695年2月5日、家督を相続する。ただし、前年に父・信武がお家騒動宇陀崩れ」で自殺した経緯によるものであり、8000石を減らした上での転封を命じられた。同年4月10日、丹波氷上郡何鹿郡天田郡内で2万石を与えられることになった。こうして織田家は、大和宇陀松山藩2万8000石から丹波柏原藩2万石に転封になった。元禄11年(1698年)4月21日、藩主として初めてお国入りする許可を得る。

信休は、柏原村の亀屋田助邸を仮御殿、井尻屋文七邸を仮公儀所として藩政を開始させた。正徳4年(1714年5月27日にようやく柏原陣屋が完成し、落成式を行った。なお、転封となった信休は、従来の国主並の家格を返上した。官位もそれまでの当主は従四位下・侍従まで昇進したのに対して、以降の当主は従五位下止まりであった(織田信憑を除く)。

宝永元年(1704年)6月27日、大和川付替えの御手伝普請を命じられる。信休はたびたび現場の視察を行っている。正徳2年(1712年)2月2日、江戸の大名火消(方角火消)を命じられる。享保7年(1722年)11月29日、柏原において死去、享年45。徳源寺に葬られた。なお、明治維新後、同寺は廃寺となり、現在は14代・織田信民までが埋葬されている織田家廟所となっている[1]

系譜

脚注

  1. ^ 週刊朝日』2014年11月21日号
  2. ^ (1711年 - 1760年)柳原家17代当主。従一位。冷泉為綱の子。 子に紀光岩倉具選日野資矩正室。




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