織田信康とは? わかりやすく解説

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織田信康(おだ のぶやす) ????~????


織田信康

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/05 10:04 UTC 版)

 
織田 信康
時代 戦国時代
死没 天文13年9月22日1544年10月8日
別名 通称:与次郎(與次郎)、弾正左衛門
諡号 伯厳又は白厳
戒名 雲林院殿白巌仍叟居士[注釈 1]
仍叟白巌大居士[注釈 1]
氏族 織田弾正忠家(勝幡織田氏)
父母 父:織田信定
兄弟 信秀信康信正信光信実信次松平信定正室、長栄寺殿、おつやの方秋悦院
信清広良信正[注釈 2]与一信武織田信張正室ら
養子:信時
特記
事項
犬山城築城主
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織田 信康(おだ のぶやす)は、戦国時代武将犬山城築城主。

生涯

尾張国織田弾正忠家(勝幡織田氏)の当主・織田信定の子として誕生。

天文2年(1533年7月11日、兄・信秀が主家筋の織田大和守家(清洲織田氏)織田達勝と争った際、和平成立後、兄・信秀の代理として清洲城に出向いた[1]。また、天文6年(1537年)には犬山城に入城し、織田伊勢守家(岩倉織田氏)の織田信安の後見役も務めたとされる。兄・信秀に従い、今川氏との小豆坂の戦いなどで戦功を挙げる[2]など、政戦両面で活躍した。

天文13年(1544年)、斎藤道三との戦いに従軍し、美濃稲葉山城攻め(加納口の戦い)にて戦死[3]。没年については天文16年(1547年)ともされる。子・信清は信秀や信長に対して反抗的であったため、犬山織田家は織田弾正忠家の敵対勢力の1つとなった。

系譜

脚注

注釈

  1. ^ a b 『犬山里語記』(19世紀前半成立)による。必ずしも当時の戒名とは限らない。
  2. ^ a b 『蜂須賀家成立書并系図』による。

出典

  1. ^ 言継卿記
  2. ^ 太田牛一信長公記』巻首 「あづき坂合戦の事」
  3. ^ 太田牛一 『信長公記』 巻首 「美濃国へ乱入し五千討死の事」

関連項目

  • 針綱神社 - 天文6年(1537年)、安産祈願のため信康自ら手彫りの狛犬一対を奉納した。以来、同神社は安産・子授けにご利益があるとされる。

登場する作品



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