戦いの経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/26 19:12 UTC 版)
ジェームズ3世に対する反乱は1488年のはじめにジェームズ王子が担ぎ上げられた以降、すでに数か月続いていた。ジェームズ3世は息子を取り戻して事態を打開すべく、まず交渉をすると約した文書を出したが、後にそれを破ってエディンバラへ南下した。この背信でジェームズ3世支持者の多くが彼を見放し、中立に転じた。5月、王は渡河してブラックネス城(英語版)を基地とし、一方王子はリンリスゴーにいた。しかしリンリスゴーにいる王子を取り戻す試みは失敗、小競り合いに負けた王はブラックネスへ戻った。彼はさらに反乱軍に人質として預かれた人々を見捨てて逃亡し、5月16日にはエディンバラに戻った。そして、支持を得るために初代アソル伯爵ジョン・ステュアート(英語版)など多くの人々にお金をばらまいた。 この時点では反乱軍がスターリングやリンリスゴーなどに分散しており、王は機会に乗じて突如ファイフに移動、続いてスターリングに進軍して6月10日に反乱軍を南へと撃退した。王はスターリングを平定したが、次の日にスターリングから南2マイルのソーキ・バーンで反乱軍に遭遇した。リンリスゴーの反乱軍がやってきたので、撃退された反乱軍が再びジェームズ3世に挑んだのであった。ジェームズ3世はロバート・ブルースの剣を持って出陣した。 戦闘は王党派の敗北に終わった。ジェームズ3世はこの戦闘で帰らぬ人となったが、その詳細についてはよくわかっておらず、16世紀の年代記作家はジェームズ3世が暗殺された、馬に振り落とされて死亡した、と2つの説を提唱した。 ジェームズ王子は王位を継承して、以降25年間ジェームズ4世として統治した。彼は治世を通して腕に重い鉄の鎖をつけ、父の死における自分の役割を記憶し続けた。 2009年のスコットランド歴史環境政策により、戦場のヒストリック・スコットランド(英語版)による保護が検討されている。
※この「戦いの経緯」の解説は、「ソーキバーンの戦い」の解説の一部です。
「戦いの経緯」を含む「ソーキバーンの戦い」の記事については、「ソーキバーンの戦い」の概要を参照ください。
戦いの経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/01 22:11 UTC 版)
12月、魏の大将軍司馬師は鎮東将軍諸葛誕・胡遵らに呉への侵攻を命じ、安東将軍司馬昭を監軍として随行させた。諸葛誕は軍を3路に分けて進軍し、豫州諸軍事王昶・荊州諸軍事毌丘倹には陽動のため南郡と武昌をそれぞれ攻撃させ、諸葛誕自身は7万の兵を指揮して東興に向かった。東興に進軍した諸葛誕らは堤を決壊させるべく、船を並べて浮橋を築いて渡り堤の上に進軍して陣を張った。そして、全端・留略が守る堤の左右の山地に築かれた2つの城に攻撃をかけたが、地勢が険しかったためなかなか落とすことはできなかった。 これに対し呉軍は、諸葛恪が全軍の総指揮を執り、丁奉・留賛・呂拠・唐咨らを先鋒として東興に軍を進めた。先鋒部隊が長江を越えて東興に上陸すると、山岳地帯を通って西方に向かい上流に出ようとした。このとき、丁奉は味方の各軍団の動きが遅いことを見て、敵に先手を取られないよう迅速に行軍するため、味方とは別行動をとり1人で3000の兵を率いて敵陣に急行した。ちょうど北風が吹いていたので、丁奉は船に帆をかけて2日で戦場に到着し、徐塘という地に陣営を張った。そして、敵陣を視察すると雪が降るような寒い日であったため、敵の武将たちが宴会を開いて完全に油断をしきっていた。丁奉は魏軍の前衛が薄いのを見て取り、兵士を鼓舞しつつ鎧を脱がせて冑に剣だけを持たせて奇襲をかけ、前衛陣地を散々に撃破した。その時、呂拠らが遅れて戦場に到着し、ともに攻撃して魏軍を大破させた。 その後、敗走した魏軍はあわてて浮橋に殺到したが、呉の朱異によって浮橋が壊されたので退路を失い、大混乱に陥った。魏軍は韓綜・桓嘉をはじめ数万人が戦死した。そして、この大敗により南郡、武昌に進軍した魏軍はそれ以上の侵攻を諦めて陣を焼き払って撤退した。結果的にこの戦は呉軍の大勝利に終わった。
※この「戦いの経緯」の解説は、「東興の戦い」の解説の一部です。
「戦いの経緯」を含む「東興の戦い」の記事については、「東興の戦い」の概要を参照ください。
戦いの経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/11 02:21 UTC 版)
『信長公記』によるこの戦いの経緯は、以下の通りである。年次未記載の9月3日、織田信秀は尾張国中に要請して兵を集め、美濃へ侵入した。方々に放火をして回り、9月22日には斎藤道三の居城稲葉山城山麓の村々も焼き払って町口にまで迫った。しかし、申の刻(およそ午後4時ごろ)になったので一旦引き上げることにし、兵が半分ほど引いたところへ道三が攻撃してきて、織田方は守備が整わず、信秀の弟織田信康や信長の家老青山信昌など5千人が討ち死にした。 ところが、『美濃国諸旧記』には全く異なる経緯が書かれており、天文13年8月15日(1544年9月2日)、道三の美濃守護土岐頼芸に対する逆心を憎んだ信秀が、越前の朝倉孝景と呼応して美濃へ南北から攻め入り、信秀の兵数は5千余人だったという。両勢に攻められた道三は和睦することにした。しかし朝倉・織田は道三を信用せずに、天文16年8月15日(1547年9月28日)にも大桑城に籠もる頼芸・頼純に蜂起させて、朝倉・織田連合軍で支援しようとしたが、道三が先手を打って大桑城を1万3千の兵で強襲して攻め落とした。頼純は打って出て討ち死にし、頼芸は朝倉を頼って一乗谷に逃れたという。
※この「戦いの経緯」の解説は、「加納口の戦い」の解説の一部です。
「戦いの経緯」を含む「加納口の戦い」の記事については、「加納口の戦い」の概要を参照ください。
戦いの経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/22 03:01 UTC 版)
「ウェイクフィールドの戦い」の記事における「戦いの経緯」の解説
ヨーク公はすでに国王ヘンリー6世から、ヘンリー6世の死後、王位を自身とその相続人に継がせるという約束を取り付けることに成功していた。王妃マーガレットはこの力ずくの約束を受け入れることに不本意で、彼女の唯一の息子である王太子エドワード(当時6歳)に王位を継がせる決心をしていた。兵力がヨーク派のそれに勝るという状態で、彼女はヨーク公に立ち向かうために北進した。
※この「戦いの経緯」の解説は、「ウェイクフィールドの戦い」の解説の一部です。
「戦いの経緯」を含む「ウェイクフィールドの戦い」の記事については、「ウェイクフィールドの戦い」の概要を参照ください。
戦いの経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/08 14:06 UTC 版)
張繡は奇襲を決行するに当たり、賈詡の立案した計略を採用した。まず、軍を大通りに移動させる為、曹操軍の陣営を通過させて欲しいと曹操に申し出た。その際、所有している車が少なく輜重が重い事から、兵士に鎧を付けたままで移動させて欲しいと合わせて願い出た。曹操がこれを信じて全て快諾すると、張繡は兵士に完全武装させた上で陣営へ赴き、そのまま奇襲を仕掛けた。曹操は異変を察知すると陣営を出て迎撃しようとしたが、全く備えをしていなかった為にまともに指揮が執れなかった。その為、形勢不利を悟ると軽装の騎馬で逃走を図った。 曹操配下の典韋は陣門の中に留まって奮戦し、張繡軍の侵入を拒んだ。これにより敵兵は散り散りになり、他の門より侵入する外なかった。この時、典韋の部下はまだ10人余りいたが、みな決死の覚悟で戦い、1人で10人以上の敵と打ち合っていた。次第に敵の攻勢は激しくなり、相手にする数も増えていったが、典韋は防戦を続けて長い戟を右へ左へ振り回し、1振りで10本以上の矛を打ち砕いた。だが、周りにいた部下は戦死してほぼいなくなっており、自身も数十ヶ所に傷を負っていた。それでもなお抗戦し、短い武器に持ち替えて白兵戦を続け、敵が進み出て組み付こうとすると2人の敵兵を両脇に挟んで殺したので、敵は恐れて進むことができなかった。さらには再び敵に突進して数人を打ち取ったが、この時には既に致命傷といえる傷を負っており、遂に典韋は口を開いて目を怒らせ、大声で敵軍を罵倒しながら息絶えた。敵兵はようやく典韋に接近すると、彼の首を取ってそれを周りに渡して見せ物にした。あまりの壮絶な死に様に軍中の多くの者が典韋の体を一目見ようと群がったという。 混乱の最中、ばらばらになっていた曹操の軍はみな間道を通って逃げ惑いながら曹操の姿を探し回っていた。ただ于禁だけは部下数百人を指揮し、向かってくる敵軍の迎撃に当たり、死傷者は出したものの脱走する兵は一人としていなかった。敵の追撃が少しずつ緩くなってくるのを確認すると、おもむろに隊列を整え、太鼓を鳴らしながら退却した。 この時、曹操は絶影という馬に乗り、息子の曹昂とともに宛より北へ向かって逃亡していた。だが、追撃軍により絶影は頬と足を射られて走れなくなり、曹操自身にも矢が刺さって右腿を負傷してしまった。曹昂もまた負傷して馬に乗れなくなっていたため、彼は自分の馬を曹操に提供した。これにより曹操は逃げ果せることができたが、曹昂は敵の追撃を受けて戦死してしまった。甥の曹安民もまた撤退する曹操を守って戦死した。 こうして曹操はどうにか敵の手から逃れると、舞陰まで引き返すことが出来た。張繡は騎兵を引き連れて舞陰を攻撃したが、曹操の援軍が駆けつけたために撃退された。
※この「戦いの経緯」の解説は、「宛城の戦い」の解説の一部です。
「戦いの経緯」を含む「宛城の戦い」の記事については、「宛城の戦い」の概要を参照ください。
戦いの経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/08 15:25 UTC 版)
尾張下四郡を支配する守護代、清洲織田家(織田大和守家)の重臣で、清洲三奉行の一人織田信秀(織田信長の父)はその勢力を伸ばし、主家の清洲織田家とも対立と和睦を繰り返すほどになっていた。しかし、信秀が死去(時期には諸説あり)して、子の信長が家督を継ぐと、信秀に従っていた鳴海城主山口教継・教吉父子が駿河の今川義元に寝返り、天文21年4月17日(1552年5月10日)には信長と教吉の間で赤塚の戦いが勃発した。 このころ清洲織田家の当主は織田信友だったが、その実権は又代の坂井大膳に握られていた。大膳は同輩の坂井甚介・河尻与一・織田三位と謀り、天文21年8月15日(1552年9月3日)、信長方の松葉城とその並びにある深田城を襲撃すると、松葉城主織田伊賀守と深田城主織田信次(信秀の弟で信長の叔父)を人質とした。 この報せを聞いた信長は、8月16日早朝に那古野城を出陣すると、稲庭地(稲葉地)の庄内川畔で、守山城から駆けつけて来た織田信光(信長の叔父で信次の兄)と合流。兵を(海津口と)他に松葉口・三本木口・清洲口に分け、自らは信光と一手になって庄内川を越し、海津(萱津)へと移動した。辰の刻(午前8時ごろ)に戦端が切られ、数刻交戦の末に坂井甚介が討ち死にした。その首は、中条家忠と柴田勝家が二人がかりで取ったという。その他、清洲方の50騎が討ち死にした。 松葉口では惣構えの中へ清洲方を追い入れ、真島の大門崎で辰の刻から午の刻(おおよそ午前8時から正午ごろ)まで交戦が行われて、数刻の矢戦に清洲方は負傷者多数でほぼ無人となって本城に退却した。深田口では三本木の町に要害がなかったため即座に追い崩し、清洲方の侍は30余人が討ち死にした。これにより、深田・松葉両城に信長方が押し寄せると、清洲方は降参して城を明け渡し、清洲へ一手になって退却した。信長は余勢を駆って清洲の田畑を薙ぎ払い、以後両者の敵対関係が続くことになった。清州方と信長方の事実上の決着は2年後の安食の戦いまで持ち越されることになる。 なお、この戦いが前田利家の初陣だという。
※この「戦いの経緯」の解説は、「萱津の戦い」の解説の一部です。
「戦いの経緯」を含む「萱津の戦い」の記事については、「萱津の戦い」の概要を参照ください。
戦いの経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 21:25 UTC 版)
234年春2月、蜀の諸葛亮は魏への遠征を再開し、褒斜道を通って長安をめざす構えを見せた。『晋書』宣帝紀では、この時動員された蜀軍は十余万とされている。司馬懿も諸葛亮を迎え撃つために、自ら指揮を執り出撃し、人口が集中している渭水の南に砦を築き、防備を固めた。『晋書』宣帝紀によると司馬懿は諸将に対し、「諸葛亮が勇者なら武功に出て東進するだろうが、五丈原に布陣するなら問題ない」と語っていた、一方、陳寿は『三国志』諸葛亮伝に、諸葛亮は武功に拠り五丈原に布陣したと正反対の見解を記している。果たして諸葛亮は渭水南岸の五丈原に布陣した。また『三国志』張翼伝によると諸葛亮は武功に出て、張翼を先鋒の前軍都督とし、扶風太守に任命したとある。諸葛亮は渭水の沿岸で兵士に屯田を行わせたが、軍規は厳正で当地の民は安堵したという。魏の皇帝の曹叡は征蜀護軍秦朗に2万の兵を与えて、司馬懿の援軍として派遣した。また、曹叡は「砦の防備を固め、守備に徹するべし。敵の食料が尽きて撤退した時、追撃するのが、遠来の敵を迎え撃って勝利を得る方法である」と司馬懿に勅令を下した。 司馬懿が指揮を執る魏の大軍は、渭水を背にして五丈原を望む形で対陣し、柵を築いて砦の防備を固めた。諸葛亮は陽動作戦を用いて魏軍を攻撃したが、郭淮に作戦を見破られて防がれた。さらに諸葛亮は女の服を送り、司馬懿を女扱いしたり、さまざまな手を使って司馬懿を挑発して魏軍の出陣を誘った。魏の諸将の間には撃って出るべきという気運が高まっていたが、皇帝の曹叡から出陣を禁じられていることを理由に司馬懿は挑発に乗らなかった。それでも司馬懿が出撃許可を求める上奏を行うと、辛毗が曹叡の命令を携えて陣を訪問し、出撃してはならないと命じた。習鑿歯の『漢晋春秋』および『晋書』宣帝紀では、辛毗が現れたことを聞いた姜維は、司馬懿がもはや絶対に出撃してこないであろうと諸葛亮に語ったが、これに対し諸葛亮は、司馬懿が出撃の姿勢を示して上奏したこと自体、諸将の不満を和らげるための策略に過ぎないと語っている。 5月、呉の皇帝孫権が蜀に呼応し、自ら大軍の指揮を執り複数方面から魏への親征を開始した。魏は国土の東西に大規模な戦線を抱え込むこととなったが、合肥を守備していた張穎が堅守して耐え、満寵が奇襲攻撃で孫権を苦しめ、さらに曹叡自らが救援に赴くと聞くと、孫権は曹叡の寿春到着を待たずに全軍を撤退させた。 蜀軍と魏軍の対陣は百日余りに及んだが、234年8月、諸葛亮は病死し蜀軍は撤退した。魏軍は撤退した蜀軍を追撃しようとしたが、蜀軍は反撃の形勢を示し、司馬懿は慌てて軍を退いた。人々はこれを揶揄して諺を作り「死せる諸葛、生ける仲達を走らす(死諸葛走生仲達)」と言った。司馬懿は人伝にこのことを聞き、「私は生者のする事は推し測れるが、死者のする事は推し測れない(吾能料生、不能料死)」(『論語』の「未だ生を知らず、焉くんぞ死を知らん」に基づいたと見られる)と答えたという。司馬懿は撤退後の諸葛亮の陣営を視察し、「天下の奇才」という感想を漏らした。
※この「戦いの経緯」の解説は、「五丈原の戦い」の解説の一部です。
「戦いの経緯」を含む「五丈原の戦い」の記事については、「五丈原の戦い」の概要を参照ください。
戦いの経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/25 01:04 UTC 版)
桑名藩主の松平定敬率いる桑名兵の京都所司代と、兄で会津藩主の松平容保率いる会津兵の京都守護職の両藩兵が、幕末の動乱にあった京都の警護に当たっていた。大政奉還で徳川政権が倒れると、両藩はその任を解かれて帰藩を命じられた。しかし、桑名城は薩摩・長州軍に包囲されていたので帰ることができなかった桑名兵は、会津藩を頼って海路で越後に行き、4月27日に柏崎に上陸し、会津戦争に加勢した。定敬は会津と運命をともにしようとしたが、容保がそれを許さなかったので、定敬は函館に向かった。藩兵は庄内軍を頼って北上した。 米沢藩がすでに降伏していたので、庄内軍が出羽国寒河江を警護していると聞いて、合流するために町田老之丞、立見鑑三郎の率いる桑名本隊は、8月25日に塩川を出発した。 途中、福島城にいた藩主・松平定敬に会うために米沢に向かおうとしたが、米沢藩はすでに降伏しており、鎮撫軍が峠を厳重に警備していたので、変更して福島城に向かい、27日に大塩と檜原に分宿した。9月9日に土湯峠を越えて、11日夜福島城下につくと、藩主には一歩違いで会えなかった。 福島城で、庄内藩士・中村七郎右衛門隊と再開して合流する。ともに鎮撫軍と戦うため、庄内藩が進出していた寒河江に向かって、13日に福島を出発する。笹谷峠を越えて、16日に山形城に着く。さらに山形街道(寒河江街道)を北上して、19日寒河江に着く。庄内藩は三番・五番銃隊、桑名藩は神風隊を左沢(西村山郡大江町左沢)に分遣して、寒河江には桑名藩のうち雷神隊・致人隊の二隊が残った。4小隊合計約300人が寒河江に宿営していた。
※この「戦いの経緯」の解説は、「長岡山の戦い」の解説の一部です。
「戦いの経緯」を含む「長岡山の戦い」の記事については、「長岡山の戦い」の概要を参照ください。
戦いの経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/06/03 00:31 UTC 版)
南海廻りにて東国武士団が上洛するとの噂より、平家方は家人等を各所の港へと配備した。そのうち志摩国を警護していた伊豆江ノ四郎に対し、熊野山からの衆徒が伊勢国を攻める途上の菜切嶋で起きた合戦である。江ノ四郎は守りきれず伊勢の宇治岡へと敗走した。 江ノ四郎の息子二名は、源氏方に寝返っていた波多野小次郎忠綱らに討たれた。 この後、熊野山より僧たちが伊勢志摩両国へと入り込み、合戦が度々発生した。平氏一族である關出羽守の甥、伊藤次已との戦いにて、大将である戒光が傷ついたことから、僧らは熊野へと戻っていった。 この項目は、日本の歴史に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:歴史/P:歴史学/PJ日本史)。
※この「戦いの経緯」の解説は、「熊野海賊菜切攻め」の解説の一部です。
「戦いの経緯」を含む「熊野海賊菜切攻め」の記事については、「熊野海賊菜切攻め」の概要を参照ください。
戦いの経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/06/03 13:22 UTC 版)
尾張下四郡の守護代、清洲織田家(織田大和守家)の重臣清洲三奉行の一人織田信秀は、主家と張り合うほどに勢力を伸ばしていたが、信秀が死去して子の信長が跡を継ぐと、守護代織田信友の下で実権を握っていた又代の坂井大膳が、同輩の坂井甚介・河尻与一(左馬丞)・織田三位らと謀って信長に敵対を始めた。しかし、天文21年8月16日(1552年9月4日)の萱津の戦いでは敗北し、坂井甚介が討ち死にした。 守護代信友の居城清洲城では、尾張守護の斯波義統が、信友や坂井大膳らの傀儡となっていた。しかし、義統の近臣の梁田弥次右衛門と那古野弥五郎が信長に内通。これを受け信長は兵を清洲に差し向けて、町を焼き払い裸城にしてしまった。信長自らも出馬したが、このときは城の守りが固く引き上げた。 天文23年7月12日(1554年8月4日)、義統の子義銀が近臣を引き連れて川狩りに出かけた隙を突き、坂井大膳・河尻左馬丞・織田三位は義統を襲撃して一門数十人もろとも死に追いやった。義銀は那古野城へ逃げて信長に保護された。 7月18日、柴田勝家が清洲へ向け出陣し、三王口で開戦。後退した清洲勢は乞食村(春日井郡安食村)で支えることができず、誓願寺前で応戦したが、ついに町口大堀の中まで追い入れられてしまった。河尻左馬丞や織田三位らが奮戦したが、柴田勢の槍は長く清洲勢のは短かったため、左馬丞・三位以下三十騎が討ち死にした。織田三位の首を取ったのは、義統の直臣だった由宇喜一だったという。
※この「戦いの経緯」の解説は、「安食の戦い」の解説の一部です。
「戦いの経緯」を含む「安食の戦い」の記事については、「安食の戦い」の概要を参照ください。
戦いの経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/31 20:33 UTC 版)
武徳4年(621年)3月、唐軍は洛陽を包囲した。洛陽には溝と壁が築かれ、城内の住民はひどく苦しんでいた。竇建徳は、10万余の大軍を西進させ、周橋(現在の山東省菏沢市定陶区)・管城・滎陽・陽翟等を攻略した。李世民は、李元吉・屈突通等の諸将に対して洛陽の包囲・攻撃を継続させ、自らは3,500名程度の歩兵・騎兵を率いて虎牢に進み、兵を留めて好機を待った。李世民と竇建徳の両軍が対峙すること数か月に及び、竇建徳の夏軍は、耐えられなくなり、兵は故郷へ戻りたいと思うようになった。夏の国子祭酒である凌敬(中国語版)は、竇建徳に対して作戦を変更するよう助言し、「主力軍は黄河を渡り、河内・河陽を攻撃すべきであり、太行山を再び越えて、上党に入り、汾陽・太原を攻略して、蒲津(中国語版)(現在の山西省運城市永済市の西)を下すべきです。この策には、三つの利があります。一、無人の境に入るものであり、勝ち取るものは万に及び、失うものは一つもありません。二、領土を開拓して兵を徴募し、軍勢はさらに強力になります。三、関中は激震し、鄭に対する唐の包囲は自然と解消されます。この策のように簡単に対処する方法は他にはありません。」と述べた。しかし、他の諸将がこの策に反対したため、竇建徳はこの策を採用せず、凌敬と竇建徳の曹皇后(中国語版)の策は、論破されることもなく終わってしまった。 5月、唐軍は、竇建徳が唐軍の兵糧が尽きるのを待っており、唐軍が黄河の北岸に馬を放牧している間に竇建徳が虎牢を襲撃しようとしていることを知った。ここにおいて、唐軍は黄河の北岸に渡り、広武の南境に到達し、河辺に千余匹の馬を放って竇建徳を誘い込み、夜には再び軍を引き返して虎牢に戻った。果たせるかな、竇建徳はこの計略にかかり、全軍を板渚(現在の滎陽市の北で、黄河の南岸)から西進させ、幅20里にわたって軍を展開し、太鼓を叩いて戦いを挑んだ。李世民は、兵を留めて動かさず、わずかに少ない数の兵士でもって対応するのみであった。時は正午に至り、竇建徳の兵士は飢えと疲れから帰りたいと思うようになり、地面に座り、また水を巡って相争うようになり、軍の秩序は大いに乱れた。唐軍は、竇建徳の兵士が疲弊したところで反撃に出て、3,000の鉄騎でもって敵営を直接攻撃した。当時、竇建徳は、群臣とともに会議をしており、陣の勢いは大いに乱れた。唐軍は、30里にわたって追撃し、竇建徳は負傷して捕虜となった。竇建徳の軍は一挙に撃破され、唐軍は、夏軍の兵3,000人余を斬殺し、50,000人余を捕虜とした。唐軍の主力は再び洛陽城に戻り、竇建徳を洛陽城下に引致して王世充と対話させた。王世充は、竇建徳の軍が壊滅したことを知り、城を献上して唐軍に投降した。
※この「戦いの経緯」の解説は、「虎牢の戦い」の解説の一部です。
「戦いの経緯」を含む「虎牢の戦い」の記事については、「虎牢の戦い」の概要を参照ください。
戦いの経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/29 16:59 UTC 版)
孫堅は袁術から劉表討伐の命を受けると、南郡に向けて進軍を開始。孫堅軍来襲の報を聞くと、劉表はすぐに配下の黄祖を樊城へ派遣して、樊城と襄陽城の連携で敵を迎え撃とうとした。しかし孫堅の苛烈な攻勢の前に、黄祖は大敗しあっけなく樊城は陥落する。黄祖は襄陽に逃走し、追撃した孫堅は漢水を渡河すると、そのまま襄陽城を包囲した。 劉表は兵力を補充するために黄祖に兵士の徴用を命じ、黄祖は夜に紛れて襄陽城を脱出すると、密かに兵士をかき集めた。しかし、孫堅は黄祖の動きを見抜いており、待ち伏せて黄祖を襲撃した。攻撃を受けた黄祖は帰城できず、峴山のひそみに隠れこんだ。孫堅は勝ちに乗じて自ら先頭に立って黄祖を追撃し、その攻撃は夜中まで行われた。だが、樹木の影に隠れていた黄祖の部下が矢を放ち、それが孫堅に命中してそのまま孫堅は死亡した(配下の呂公が落とした石に当たって即死したという説もある)。これにより孫堅軍は瓦解し、南郡から撤退した。劉表軍の方がはるかに戦死者が多かったが、結果的に劉表は荊州を守り抜いた。
※この「戦いの経緯」の解説は、「襄陽の戦い」の解説の一部です。
「戦いの経緯」を含む「襄陽の戦い」の記事については、「襄陽の戦い」の概要を参照ください。
戦いの経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/30 06:27 UTC 版)
244年3月、曹爽は都督雍涼二州諸軍事の夏侯玄・雍州刺史の郭淮らを伴い、歩兵・騎兵あわせて十万余りの軍の指揮を執って漢中に侵攻を開始した。また、司馬昭も夏侯玄の副将として参軍した。 このとき、漢中の守備兵は三万に満たず、主力は後方の涪にあったため、諸将は大いに慌てた。ある者が、関城(漢中城)を棄てて後退し、漢城・楽城を固守して援軍を待つべきだと主張した。漢中防衛の指揮を執っていた鎮北大将軍の王平は、一時的といえども関城が奪われてしまうのは非常に危険であること、涪城からの援軍が間に合わずに漢城・楽城が落ちてしまうともう後がない事などを憂慮してこれを退けた。左護軍の劉敏も、漢中では未だ人民が野におり穀物も放置されたままであるから、平地に敵を引き入れる事はこれらを彼らのほしいままにさせる事になると考え、王平の意見に同調した。王平はあえて軍を前進させ、魏軍の進軍経路である駱谷道の麓の興勢山へ劉敏(中国語版)と杜祺(中国語版)を派遣して、陣地を固守して援軍を待つ作戦を取った。王平は劉敏に命じ、軍勢の数を魏軍に錯覚させるために百里余りにわたって多数の旗幟を盛んに立てさせた。王平自身は後方で支援に当たり、もし魏の別動隊が黄金谷を通ってきた場合、王平自身が兵を分けて迎撃できるように備えた。 244年4月、王平の予想通り駱谷道を通ってきた魏軍は、隘路に立てこもった蜀軍により進軍を阻まれ、一切先に進めなくなった。また、魏軍は物資補給のため氐・羌族を動員したが、険しい地形に阻まれて少なからず犠牲者が出てしまい、大軍を維持するための補給が滞ってしまった。魏軍が足止めを食らっているうちに涪城から蜀軍、成都から大将軍費禕の軍が到着したため、蜀の陣はより強固なものとなり、長期戦になった。この時、蜀将王林は司馬昭の陣地に夜襲を掛けたが失敗に終わっている。 攻勢が長期に渡り、これ以上は無益であると判断した楊偉は曹爽に撤退を進言し、主戦派である鄧颺・李勝等と対立した。楊偉は「鄧颺と李勝はいずれ国を滅ぼします。今のうちに処刑するべきです」と言ったため、曹爽は不快になった。また、司馬昭も状況の危険性を指摘して夏侯玄に撤退を進言した。 244年5月、曹爽はついに侵攻を諦め、軍を纏めて撤退を始めた。費禕は魏軍が撤退するのを確認すると魏軍を攻撃し、退路を遮断しようとした。曹爽はこの攻撃に苦しみ被害を出しつつも、いち早く味方の軍を脱出させた郭淮の奮戦もあり苦戦の末に撤退を完了した。
※この「戦いの経緯」の解説は、「興勢の役」の解説の一部です。
「戦いの経緯」を含む「興勢の役」の記事については、「興勢の役」の概要を参照ください。
戦いの経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 08:48 UTC 版)
夏4月、孫権は曹魏征伐の兵を挙げ、揚州・荊州の二方面より侵攻を開始した。揚州方面では、全琮が淮南に、諸葛恪が六安に軍を進めた。また荊州方面では、朱然が樊城に、諸葛瑾・歩騭が柤中にそれぞれ軍を進めた。
※この「戦いの経緯」の解説は、「芍陂の役」の解説の一部です。
「戦いの経緯」を含む「芍陂の役」の記事については、「芍陂の役」の概要を参照ください。
戦いの経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 13:45 UTC 版)
陸抗は西陵に到達した諸軍へ、赤渓から故市の間に二重の包囲陣を築かせた。 この包囲陣は内には歩闡を封じ込め、外には晋軍の来襲に備えるというものであった。この工事は昼夜兼行で行われ、士卒は大いに疲弊した。 諸将はみな「三軍に勢いがある内に城を攻め、晋軍が襲来する前に落とすべきです。なぜわざわざこのようなことをして士卒を疲弊させるのですか」と問うと、 陸抗は「西陵城は堅固であり食糧も多い。城の防備は私が以前、西陵督だった時に築いたものであり、構造は熟知している。急行してもすぐに落とせるものではない。その間に晋軍が現れたら前後を挟撃を受けることになる。その時に備えをしていなくてどうやって防ぐというのか」と返した。しかし、諸将は納得せず、特に宜都太守の雷譚は強く請願したため、陸抗は一度だけ攻撃を許可した。その結果、何の成果も上げられなかったので、諸将は陸抗の命に従った。 歩闡は晋軍に救援を要請すると共に、私財を投げ打って蛮族にも協力を要請した。 羊祜が5万の兵を率いて江陵に侵攻する様子を見せると、楽郷にいた陸抗は羊祜にかまわず西陵へ向かった。陸抗の部下は楽郷に留まって江陵に備えるよう勧めたが、陸抗は「江陵は防備が固く、兵もしっかりと備わっている。もし落ちたとしても、地勢的に見て敵が維持し続けるのは困難だ。 だが西陵を奪われれば、長江南岸諸山の蛮族にも動揺を与える。そうなったときの難事を思えば、江陵を棄ててでも西陵にあたるべきだ」と述べ、軍の指揮を執り西陵に向かった。 江陵は平坦な地にあり、進軍が容易であった。陸抗は江陵督の張咸に命じ、城の周辺の水路を堰き止めさせ、江陵城に通じる北東の平地を水没させることで敵襲と味方の離反を同時に防がせた。 そのため、羊祜は江陵を攻めるにあたって、船を用いて兵糧を輸送しようとしたが、途中で堰が切られて水が引いてしまうことを恐れ、敢えて自ら堰を切って歩兵を進軍させるという虚報を流した。陸抗はこの情報が羊祜の策だと看破し、諸将の反対を押し切り江陵の守将に命じて、堤を切って水を退かせた。羊祜は当陽まで進軍したところで堰が切られたと聞き、改めて陸路で輸送する車を用意しなければならず、輸送に大幅な損害を出した。 11月、陸抗は張咸に江陵城を死守させる一方、公安督の孫遵に長江南岸を守備させ、羊祜が長江を渡って南に進軍するのを阻止させた。晋の巴東監軍の徐胤が指揮を執る水軍も建平に攻め寄せており、陸抗は水軍督の留慮・鎮西将軍の朱琬を派遣しこれを迎え撃たせた。西陵にも楊肇軍が到達すると、陸抗は自ら包囲陣に拠ってこれに対峙した。このとき、呉の将軍朱喬での営都督兪賛が裏切り、楊肇の軍に投降した。 陸抗は「兪賛は軍中に長くおり、その内情に詳しい。私は以前より訓練不足の異民族部隊を憂慮している。もし敵が包囲陣を破ろうとするなら、まず異民族部隊を狙うだろう」と述べ、密かに夜のうちに異民族の兵の守備する箇所を古参の呉の精鋭兵と交替させた。翌日、想定通り楊肇軍が異民族部隊の拠点を突いて攻めてくると、陸抗は他の部隊も動員し雨のように矢石を降らせ、大損害を与えた。 12月、戦況が膠着して万策尽き果てた楊肇は西陵攻略を断念し、夜闇に紛れて退却を開始した。陸抗はこれを追撃しようと考えたが、背後には西陵城の歩闡が呉軍の隙を窺っており、大きな兵力は割けなかった。そのため、兵を揃えて鼓を打ち鳴らし、あたかも追撃に出るかのように見せかけた。楊肇軍の兵は混乱し、装備を脱ぎ捨て、我先に逃亡しはじめた。敵部隊が崩れたところで、改めて陸抗は少数の兵を用い追撃をかけ、楊肇軍を大いに打ち破った。楊肇軍の大敗を聞いた羊祜はこれ以上の攻勢を断念し、救援軍を全面的に撤退させた。呉軍の捕虜になった者は合わせて数万に及んだ。 陸抗は晋軍が完全に撤退したのを見届けてから、西陵城に総攻撃をかけた。そしてついに西陵城を陥落させ、歩闡らを捕縛した。
※この「戦いの経緯」の解説は、「西陵の戦い」の解説の一部です。
「戦いの経緯」を含む「西陵の戦い」の記事については、「西陵の戦い」の概要を参照ください。
- 戦いの経緯のページへのリンク