十三翼の戦いの経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 07:14 UTC 版)
モンゴル部キヤト氏族の若き首領・テムジン(後のチンギス・カン)は、旧交のあったモンゴル部ジャダラン(ジャジラト)氏族のジャムカの勢力と同盟関係にあった。しかし、ジャムカの弟タイチャルが、テムジンの傘下にあったジャライル部ドランギト氏族のジョチ・ダルマラの馬群を盗み、ジョチ・ダルマラに射殺される事件が起こる。これによってジャムカはテムジンらキヤト氏族に侵攻し、テムジンはダラン・バルジュトの地でジャムカを迎え撃った。この時ジャムカの勢力には「十三の異部族(カリン)」が集まり、その内訳はジャダラン氏族をはじめ、タイチウト氏族、イキレス氏族、ウルウト氏族、ノヤキン氏族、ニチュグト・バアリン氏族らであり、3万の兵力であった。一方、テムジンの勢力は「十三の団営(クリエン)」があり、1万3千(『集史』では1万3千であるが、『元朝秘史』では3万である)の兵力であった。テムジンの勢力はたちまち敗れ、オナン河のジェレネ狭間に逃げ去った。ジャムカは捕えたネグス(チノス)氏族の者らを70人煮殺し、その族長チャカアン・ウアを斬首し、馬で引きずりまわした。『集史』ではテムジン側が勝利したとしているが、これは誤りである。
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