尾張守護
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/09 14:59 UTC 版)
父の義統は、尾張守護ではあったが実権がなく、尾張下四郡を支配する守護代・織田信友(彦五郎達勝)の傀儡となっていたが、天文23年(1554年)に義銀が手勢を率いて川狩りに出かけている隙を衝かれて、信友とその家臣で尾張小守護代の坂井大膳によって殺害されてしまった。これを知った義銀は、斯波氏と良好な関係を維持していた織田信長の元へ落ち延び、信長に信友を討たせた。以後、義銀は信長の庇護下に入る。 やがて義銀は、信長によって形式的な尾張国守護に奉じられ、三河国の吉良氏・駿河国の今川氏など、足利氏一門の守護同士の盟約を図ることとなった。この同盟の締結時に、義銀は石橋忠義(『清須合戦記』では石橋義忠とも)の戸田館において吉良義昭と対面したが、互いに足利一門最高の格式を誇る家柄同士であったことから席次を巡って争った。この時のことについて、『信長公記』によれば、同盟締結のため、斯波・吉良両氏の軍勢が約束の地として定めた上野原に到着し、互いに一町ほどの距離を置いてものものしく人数を立て備えたという。参会の場では両勢の一方には吉良義昭が、その一方には義銀がそれぞれ陣前に床几を据えていたというが、両人ともに一歩も動かなかったという。実は対面の席次のことで争いがあり、双方とも譲らなかったため、対面は相互に十歩程度前へ出て顔を合わせただけで、格別の挨拶の品もなく終了したという。
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