斯波氏の失脚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 00:27 UTC 版)
明応3年(1494年)に美濃守護土岐氏の家督争い(船田合戦)が起こると、織田寛広(伊勢守家)は斎藤妙純方に付き、石丸利光方に付いた織田敏定・寛定父子(大和守)がそれぞれ陣没・戦死するなど尾張国内が乱れたため、遠江も駿河守護の今川氏親の配下であった北条早雲の侵攻を許すこととなった。以降の斯波氏は今川氏との長い抗争に終始することとなる。なお、船田合戦終結の翌年、斎藤妙純も近江で戦死したため、伊勢守家は後ろ盾を失い急速に勢力を失った。 その後、斯波義寛の後を継いだ義達は遠江奪還のための遠征を繰り返したが、この際の義達の軍勢に織田氏は従軍しておらず、一連の遠征は織田氏にとって決して賛同できるものではなかったと思われる。このため永正10年(1513年)にはついに守護代・織田達定が守護・義達に叛旗を翻したものの、義達によって返り討ちにされてしまった。守護代の下剋上を阻止した義達はなおも遠江遠征を続行させるものの、永正12年(1515年)に決定的な敗北を喫して捕虜となり尾張へ送還されたために失脚し、わずか3歳の斯波義統が当主となり、斯波氏の権威は失墜した。 岩倉織田氏(伊勢守家)織田教広(尾張守護代) 織田教長(尾張守護代) 織田淳広(尾張守護代) 織田右長(尾張守護代) 織田郷広(尾張守護代) 織田久広(尾張守護代) 藤原久嘉(尾張守護代) 織田敏広(尾張守護代) 織田輔長(尾張守護代) 織田寛広(岩倉城主) 織田広高(岩倉城主) 織田信安(岩倉城主) 織田信賢(岩倉城主) 清洲織田氏(大和守家)織田常竹(尾張又守護代) 織田五郎(尾張又守護代) 織田久長(尾張又守護代) 織田敏定(尾張又守護代 → 尾張守護代) 織田寛定(尾張守護代) 織田寛村(尾張守護代) 織田達定(尾張守護代) 織田達勝(尾張守護代) 織田信友(尾張守護代)
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