斯波民部少輔家(斯波大野家)
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応永20年(1413年)、加賀守護斯波満種の嫡男として生まれる。持種の生まれた斯波氏は越前においては越前大野郡を武衛家(越前守護)より任されていたために「大野殿(大野家)」とも呼ばれ、斯波氏宗家である武衛家の有力な分家としてさらに加賀の守護職を相伝し、本家である武衛家に次ぐ有力な斯波氏一門として勢力を持っていた。 しかし、持種の生まれた翌年に父が4代将軍足利義持の勘気を蒙り加賀守護職を奪われて高野山へ逐電してしまい、加賀守護としての斯波氏(加賀斯波氏)はここで終焉を迎えてしまうことになった。 残された持種であったが、京都に於いて将軍・足利義持から偏諱(「持」の字)を賜り、斯波大野家代々の民部少輔に任官していることから名門・管領斯波武衛家に繋がる者として、幕府からも粗略な扱いは受けなかったようである。やがて成長した持種は武衛家一門の有力者として武衛家家中で大きな発言力を持つようになる。 永享の乱では、斯波氏を代表して関東に出陣し、駿河守護今川範忠らと共に鎌倉公方足利持氏と戦った。しかし、その直後の嘉吉元年(1428年)に元遠江守護の流れを汲む今川貞秋が遠江奪還を目指して挙兵をしたため、これを攻め滅ぼした(『斯波家譜』には「駿河国乃守護今川左衛門佐」と記されているが、今川範忠は左衛門佐に任じられたことはなく、左衛門佐は貞秋の官途受領名である)。
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