斯波民部少輔家とは? わかりやすく解説

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斯波民部少輔家(斯波大野家)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/23 14:23 UTC 版)

斯波持種」の記事における「斯波民部少輔家(斯波大野家)」の解説

応永20年1413年)、加賀守斯波満種嫡男として生まれる。持種の生まれた斯波氏越前においては越前大野郡を武衛家(越前守護)より任されていたために「大野殿(大野家)」とも呼ばれ斯波氏宗家である武衛家の有力な分家としてさらに加賀守護職相伝し、本家である武衛家に次ぐ有力な斯波氏一門として勢力持っていた。 しかし、持種の生まれた翌年に父が4代将軍足利義持勘気を蒙り加賀守護職を奪われ高野山逐電してしまい、加賀守としての斯波氏加賀斯波氏)はここで終焉迎えてしまうことになった残された持種であったが、京都に於いて将軍足利義持から偏諱(「持」の字)を賜り斯波大野家代々民部少輔任官していることから名門管領斯波武衛家に繋がる者として、幕府からも粗略な扱いは受けなかったようである。やがて成長した持種は武衛一門有力者として武衛家家中で大きな発言力を持つようになる永享の乱では、斯波氏代表して関東出陣し駿河守今川範忠と共に鎌倉公方足利持氏戦った。しかし、その直後嘉吉元年1428年)に元遠江守護の流れを汲む今川貞秋が遠江奪還目指し挙兵したため、これを攻め滅ぼした(『斯波家譜』には「駿河国守護今川左衛門佐」と記されているが、今川範忠左衛門佐任じられことはなく、左衛門佐は貞秋の官途受領名である)。

※この「斯波民部少輔家(斯波大野家)」の解説は、「斯波持種」の解説の一部です。
「斯波民部少輔家(斯波大野家)」を含む「斯波持種」の記事については、「斯波持種」の概要を参照ください。

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