斯羅国(新羅)についての記述
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/16 18:23 UTC 版)
「職貢図」の記事における「斯羅国(新羅)についての記述」の解説
新羅があるときは韓の属国であり、あるときは倭の属国であったと記載されている。 斯羅國,本東夷辰韓之小國也。魏時曰新羅,宋時曰斯羅,其實一也。或屬韓或屬倭,國王不能自通使聘。普通二年,其王名募秦,始使隨百濟奉表献方物。其國有城,號曰健年。其俗與高麗相類。無文字,刻木為範,言語待百濟而後通焉 斯羅國は元は東夷の辰韓の小国。魏の時代では新羅といい、南朝宋の時代には斯羅というが同一の国である。或るとき韓に属し、あるときは倭国に属したため国王は使者を派遣できなかった。普通2年(521年)に募秦王(法興王)が百済に随伴して初めて朝貢した。斯羅国には健年城という城があり、習俗は高麗(高句麗)と類似し文字はなく木を刻んで範とした(木簡)。百済の通訳で梁と会話を行った。 韓国の歴史家ユン・ヨングは張庚模本と南京博物院旧蔵模本と比較したうえで「新羅と高句麗を含んだ7国の題起は完全に新しく出現した資料」とした。また、張庚模本の新羅題記の中の「或屬韓或屬倭」(「或るときは韓に属し、或るときは倭(国)に属した」)という記述について、任那日本府(369年 - 562年)問題や414年に建立された広開土王碑碑文における 百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡海破百殘加羅新羅以為臣民 百済と新羅は高句麗属民で朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に海を渡り百済・加羅・新羅を破り、臣民となした という記述などの諸問題に関連して議論が起こるだろうとした。 「三韓征伐」も参照
※この「斯羅国(新羅)についての記述」の解説は、「職貢図」の解説の一部です。
「斯羅国(新羅)についての記述」を含む「職貢図」の記事については、「職貢図」の概要を参照ください。
斯羅国(新羅)についての記述
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/09 09:30 UTC 版)
「倭・倭人関連の中国文献」の記事における「斯羅国(新羅)についての記述」の解説
「斯羅國,本東夷辰韓之小國也。魏時曰新羅,宋時曰斯羅,其實一也。或屬韓或屬倭,國王不能自通使聘。普通二年,其王名募秦,始使隨百濟奉表献方物。其國有城,號曰健年。其俗與高麗相類。無文字,刻木為範,言語待百濟而後通焉」。斯羅國は元は東夷の辰韓諸国の中の一小国であった。魏の時代では新羅といい、劉宋の時代には斯羅というが同一の国である。或るとき韓に服属し、あるときは倭に服属していたため、国王は使者を派遣できなかったとしている。普通二年(521年)に、募秦王(法興王)が、初めて、百済に随伴し朝貢する使節を派遣した。斯羅国には健年城という城があり、習俗は高麗(高句麗)と類似し文字はなく木を刻んで範とした(木簡)。百済の通訳で梁と会話を行った。 韓国の歴史家ユン・ヨングは張庚模本と南京博物院旧蔵模本と比較したうえで「新羅と高句麗を含んだ7カ国の題起は完全に新しく出現した資料」とした。また、張庚模本の新羅題記の中の「或屬韓或屬倭」(「或るときは韓に服属し、或るときは倭国王に服属した」)という記述について、任那日本府(369年-562年)問題や414年に建立された広開土王碑碑文における 百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡海破百殘加羅新羅以為臣民百済と新羅は高句麗属民で朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に海を渡り百済・加羅・新羅を破り、臣民となした という記述解釈などの諸問題に関連して議論が起こるだろうとした。 「三韓征伐」も参照
※この「斯羅国(新羅)についての記述」の解説は、「倭・倭人関連の中国文献」の解説の一部です。
「斯羅国(新羅)についての記述」を含む「倭・倭人関連の中国文献」の記事については、「倭・倭人関連の中国文献」の概要を参照ください。
- 斯羅国についての記述のページへのリンク