好太王碑
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座標: 北緯41度7分49.4秒 東経126度11分2.6秒 / 北緯41.130389度 東経126.184056度
- ^ 藤田友治 (1983年). “好太王碑改削説への反証”. 市民の古代. オリジナルの2020年10月18日時点におけるアーカイブ。
- ^ 藤田友治. “好太王碑の新たな論争点”. 市民の古代. オリジナルの2020年10月18日時点におけるアーカイブ。
- ^ 同じく5世紀の建立の中原高句麗碑においては、征服地である新羅の民衆への理解を考慮し新羅語の制約を受けた表記法になっていると推察される。李 2000[要ページ番号]
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- ^ a b c d e f g h i 坂元義種「巻頭史論 研究史 古代の日本と朝鮮--「七支刀」「好太王碑」「倭の五王」研究の成果と課題」『歴史読本』第51巻第3号、新人物往来社、2006年2月、55-58頁。
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- ^ 王健群『好太王碑の研究』雄渾社〈シリーズ歴史研究〉、1984年12月。ISBN 4-8418-3000-6。
- ^ “好太王碑 最古の拓本発見 旧日本陸軍入手のものと一致 吉村明大教授「改竄論争に終止符」”. 読売新聞: p. 19. (2006年4月14日). "中国社会科学院の徐建新氏は、「好太王碑拓本の研究」(東京堂出版、2006年、335 ページ)において「酒匂拓本と全く同じであり、改竄は全く無かった」ことを証明した。"
- ^ 徐建新『好太王碑拓本の研究』東京堂出版、2006年2月。ISBN 4-490-20569-4。
- ^ 関晃『日本古代の政治と文化』吉川弘文館、1997年1月1日。ISBN 4642023054。
- ^ 朴 1985 P350-P352[要ページ番号]
- ^ 坂元義種「巻頭史論 研究史 古代の日本と朝鮮--「七支刀」「好太王碑」「倭の五王」研究の成果と課題」『歴史読本』第51巻第3号、新人物往来社、2006年2月、54頁。
- ^ 中国国家宝物局発行『中国文物報』1月4日発行
広開土王碑
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詳細は「好太王碑」を参照 広開土王碑文には、4世紀末に倭が朝鮮半島に進出して百済や新羅を臣従させ、高句麗と激しく戦ったことが、高句麗側の視点から記録されている。 李進熙は、1972年に好太王碑改竄説を主張し、広開土王碑碑文は大日本帝国陸軍が大日本帝国の半島進出を正当化するために碑に手を加え改竄したとしたが、2005年(平成17年)6月23日に墨本が中国で発見され、さらに2006年(平成18年)4月には中国社会科学院の徐建新により、1881年(明治14年)に作成された現存最古の拓本と酒匂本とが完全に一致していることが発表され、これにより改竄・捏造説は完全に否定された。
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