井上頼圀とは? わかりやすく解説

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いのうえ‐よりくに〔ゐのうへ‐〕【井上頼圀】

読み方:いのうえよりくに

[1839〜1914]国学者江戸の人。平田銕胤(ひらたかねたね)に師事皇典講究所(のちの国学院大学)を設立。「古事類苑」の編纂参加


井上頼圀

読み方いのうえ よりくに

幕末・明治初期国学者江戸生。幼名次郎、のち大学。頼圀は通称。号伯随・厚載。相川景見平田銕胤らに学び新政府仕えながら私塾神習舎を開く。皇典講究所設立華族女学校教授学習院教授など歴任。「六国史」の校訂、「古事類苑」の編集にあたる。大正3年(1914)歿、76才。

井上頼圀

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/01/26 05:59 UTC 版)

井上 頼圀
人物情報
生誕 (1839-04-01) 1839年4月1日
日本 江戸
死没 (1914-07-04) 1914年7月4日(75歳没)
学問
研究分野 国学国語学
研究機関 國學院女子学習院
学位 文学博士
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井上 頼圀(いのうえ よりくに、天保10年2月18日新暦1839年4月1日) - 大正3年(1914年7月4日)は、国学者

経歴

江戸・神田松下町生まれ。幼名は次郎。通称は肥後・鉄直。号は伯随・厚載。和歌相川景見に学び、平田銕胤国学を、日本古暦道を権田直助に学ぶ。維新後文部省宮内省に出仕し、私塾神習舎で教えた。明治15年(1882年松野勇雄らと皇典講究所(のち國學院)を設立。明治16年(1883年矢野玄道六国史の校訂を嘱託される。國學院教授、女子学習院教授、古事類苑校閲員を務めた。1905年東京帝国大学文学博士

大正元年(1912年)、六国史校訂材料取調主任に就任。大正3年(1914年)7月4日、腎臓炎と尿毒症のため死去[1]。墓所は青山霊園(立山1イ3-1)。

家族・親族

著書

脚注

  1. ^ 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』(吉川弘文館、2010年)42頁

参考文献




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