大槻如電とは? わかりやすく解説

おおつき‐じょでん〔おほつき‐〕【大槻如電】

読み方:おおつきじょでん

[1845〜1931漢学者江戸生まれ。磐渓の長男文彦の兄。本名、清修。和漢洋の学に通じ、特に日本音楽精通。著「舞楽図説」「俗曲由来」「東西年表」など。


大槻如電

読み方おおつき じょでん(にょでん)

学者江戸生。儒学者大槻磐渓の子国学者文彦の兄。名は清修、字は念卿・士修、別号は玩古道人等、通称修二仙台砲術指南維新後海軍兵学家、文部省奉職和漢洋学から文芸音楽舞踏まで博学多才であった。著に『洋学年表』等。昭和6年1931)歿、87才。

大槻如電

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/11/05 12:54 UTC 版)

若き日の大槻如電(左)
磐渓(中央)・弟文彦(右)と(1874年)

大槻 如電(おおつき じょでん、にょでん、弘化2年8月17日1845年9月18日) - 1931年昭和6年)1月12日)は、明治時代から昭和時代初期にかけて活躍した学者・著述家。本名は清修。字(あざな)は念卿。通称は修二。如電は号。仙台藩士大槻磐渓の長男。大槻文彦は弟。

略歴・業績

仙台藩儒学者大槻磐渓の次男[注釈 1]として江戸に生まれる。『言海』の執筆で著名な大槻文彦にあたる。

家学をうけて林家漢学を学び[注釈 2]、仙台藩の藩校養賢堂では国学も学んだ。1871年明治4年)海軍兵学寮の教官となり、文部省に勤務して仙台藩から文部省に引き継がれた『新撰字書』編集事業にたずさわる。1874年(明治7年)、文部省を退官したのちは在野の学者として著述に専心した。1875年(明治8年)には家督を弟の文彦に譲っているが[2]、これは自由奔放な生き方の自分よりも、弟に家を任せた方が適切だと考えたことによる。

和漢洋の学や文芸に通じ、『東西年表』[3]や『洋学年表』[4]、『駅路通』[5]などの著作があり、父大槻磐渓の著作『近古史談』[6]の改訂をおこなっている(刪修標注および刊行は大槻文彦[7]。また、祖父大槻玄沢と親交のあった工藤平助の小伝も著している[8]

如電は多方面に才能を発する知識人であったが、特に舞踊雅楽、また平曲から俗曲にいたる日本伝統音楽には精通しており、『俗曲の由来』や日本の雅楽研究の嚆矢となる『舞楽図説』[9]を発表している。また、博識とともにその奇行で知られた。1931年(昭和6年)、腎炎のため87歳で没した[10]。子に大槻義雄、大槻正二、大槻清三。二男の茂雄は如電の弟・文彦の養子となった[11]

人物

大児は白石の如く着々人に遅れず
小児は黒石の如く歩々ただ身を顧みる
修や望む汝が其の鋭を養い機事よく密にして成を害せざるを
復や望む汝が其の重を持し終然収め来る全局の贏を
君見ずや労蘇当年二子に名づく
軾轍と類をとりて良に以あるを
「二児の歌」『昨夢詩暦』

父の磐渓は、息子二人の性格を「二児の歌」という詩に託して右のように述べている。この歌の「大児」「修」とは如電のことであり、「小児」「復」とは弟・文彦のことである。この歌で父・磐渓は、如電の何事にも積極的な性格と文彦の着実に歩を進める性格を対比・指摘している。これは如電5歳、文彦3歳時の父親による評価であるが、後に文彦自身も「兄は何事にも機先を制するやり方であるのに対し、自分は進むよりは守るという主義である」と述べている[12]。先述のように家督を弟の文彦に譲ったことも、このような両者の性格によるものであろう。

実際に一つのことに長く打ち込み、10年以上の年月をかけて『言海』を作成した文彦と比べて、如電の興味・研究対象は歴史[4][13]・地理・音楽[9]・服飾[14]と非常に多岐にわたっている。

碩学として世に認められていた反面、奇行癖があったのも事実で、奇人扱いされることも多かった。講演会などでは、前の登壇者の発言の誤りをいちいち指摘するので、嫌がられることもあったという[2]

著書

家系図[15]

江戸大槻家 仙台大槻家 大槻宗家
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
大槻茂性(6代)[16]
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
大槻玄梁
 
 
 
 
 
 
 
大槻清慶(7代)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
大槻玄沢
 
 
 
 
 
 
 
大槻清雄(9代)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
大槻磐渓
 
大槻磐里
 
大槻平泉
 
大槻清臣(10代)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
中村英麻呂
 
大槻文彦
 
大槻如電
 
大槻習斎
 
大槻清廉(11代)
 
佐々木中沢(娘婿)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
中村勝麻呂
 
 
 
 
 
 
大槻清良
 
大槻清裕(12代)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
中村英勝
 
中村妙子
 
 
中野好夫
 
大槻清俊(13代)
 
 

脚注

注釈

  1. ^ 長男と記される場合もあるが、これは本来の長男、順之助が夭折したためである。
  2. ^ 大切にしていた軸「紅毛船図」(内題)は冨島伝吉蔵板に筆彩した林子平由来の品で、1908年(明治41年)に識語を付したもの[1] が大槻家旧蔵資料として早稲田大学に伝わる。

出典

  1. ^ 林子平阿蘭陀船図説」1782年、2019年2月3日閲覧 
  2. ^ a b 阿曽沼 2005, p. 103.
  3. ^ 東西年表 1927.
  4. ^ a b 洋学年表 1877.
  5. ^ 駅路通 1911.
  6. ^ 近古史談 1879.
  7. ^ 近代デジタルライブラリー”. 2010年2月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年4月28日閲覧。
  8. ^ 関 2008, pp. 91–92.
  9. ^ a b 舞楽図説 1905.
  10. ^ 近代有名人の死因一覧 2010, p. 6.
  11. ^ 大槻文彦『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
  12. ^ 大島 2004, pp. 106, 107.
  13. ^ 御家騷動の研究 1925.
  14. ^ 江戸服飾史談 2001.
  15. ^ 『ダ・ダ・スコ』p25-29
  16. ^ 宗家の代数:『GENTAKU』一関市博物館(2007年)

参考文献

  • 大島英介『大槻磐渓 昨夢詩情のこころ』宝文堂、2004年3月。 ISBN 4-8323-0126-8 
  • 阿曽沼要『大槻三賢人』高橋印刷株式会社、2005年6月。 (ISBNなし、一部地域のみ書店販売)
  • 関民子『只野真葛』吉川弘文館<人物叢書>、2008年11月。 ISBN 4-642-05248-8 
  • 服部敏良「付録「近代有名人の死因一覧」」『事典有名人の死亡診断 近代編』吉川弘文館、2010年、6頁。 
  • 一関市博物館編『学問の家 大槻家の人びと-玄沢から文彦まで』吉川弘文館、2024年10月、ISBN 9784642084581

関連文献

  • 武部健一「大槻如電『駅通路』とその交通史学的意義」『交通史研究』第65巻、交通史学会、2008年、23-44頁、doi:10.20712/kotsushi.65.0_23 

外部リンク




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「大槻如電」の関連用語

大槻如電のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



大槻如電のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
デジタル大辞泉デジタル大辞泉
(C)Shogakukan Inc.
株式会社 小学館
株式会社思文閣株式会社思文閣
Copyright(c)2025 SHIBUNKAKU Co., Ltd. ALL RIGHTS RESERVED.
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの大槻如電 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS