権田直助とは? わかりやすく解説

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ごんだ‐なおすけ〔‐なほすけ〕【権田直助】

読み方:ごんだなおすけ

[1809〜1887]幕末・明治初期国学者医者武蔵の人。号、名越舎(なごしのや)。平田篤胤(ひらたあつたね)に国学学んだ尊攘(そんじょう)運動参加維新後神官皇典講究所教授などを歴任。著「みたまのふゆ」など。


権田直助

読み方ごんだ なおすけ

幕末・明治国学者神道家。号は名は越舎。家は代々医を業とする。15才幕府侍医野間広春院に医道学び、また安積艮斎通学し漢学修める。のち郷里帰り本朝医道起こし一家成した国学平田篤胤学び白川家の学舘を預かり皇学教授する。各神社宮司神道管長神道分局等、神道関係に携わり国事にも尽力する著書に『詞の経緯図』『語学自在』『心の種』等多数明治20年(1887)歿、79才。

権田直助

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/18 18:10 UTC 版)

権田 直助
権田直助像(大山阿夫利神社蔵)
人物情報
別名 :名越廼舎
生誕 文化6年1月13日 (1809-02-26) 1809年2月26日
日本武蔵国入間郡毛呂本郷(現・埼玉県入間郡毛呂山町
死没 (1887-06-08) 1887年6月8日(78歳没)
日本
国籍 日本
学問
時代 幕末明治
研究分野 国学
研究機関 皇典講究所
影響を受けた人物 野間広春院
安積艮斎
平田篤胤
主な受賞歴 正五位
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権田 直助(ごんだ なおすけ、1809年2月26日文化6年1月13日〉 - 1887年明治20年〉6月8日[1])は、幕末から明治前期の国学者・神道家・医者

略伝

武蔵国入間郡毛呂本郷(現・埼玉県入間郡毛呂山町)出身。幼名を玄常、は名越廼舎(なごしのや)。医術は野間広春院、漢学安積艮斎、国学を平田篤胤に学び、相楽総三落合直亮らとともに尊王攘夷運動に関わる。

維新後は大学校の設立等に尽力し、大学中博士となる。皇典講究所文学部教授、神道本局顧問を歴任。晩年は神社再興の先駆者として大山阿夫利神社及び三嶋大社の長に任ぜられた[2]。墓所は権田公園となっている。

明治40年(1907年)、正五位を追贈された[3]

著書

脚注

  1. ^ 『官報』第1186号、明治20年6月14日、p.150.NDLJP:2944420/2
  2. ^ 『國学者著述綜覧』, p. 92.
  3. ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.22

参考文献

  • 『國学者著述綜覧』関隆治編、森北書店、1943年。 
  • 中根粛治・編『慶長以来諸家著述目録 和学家之部』(1893年、青山堂支店、『國学者著述綜覧』, p. 93より)

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