神道
神道家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 00:58 UTC 版)
神道家としての後醍醐天皇は、大覚寺統の慣例に則り、当時廃れつつあった伊勢神宮を保護し、外宮の度会家行から伊勢神道を学んだ。この縁で、後醍醐天皇第一の側近であり中世最大の思想家・歴史家でもある北畠親房も伊勢神道の思想を取り込み、主著『神皇正統記』等に表現したため、日本の哲学・歴史学への思想的影響は大きい。 伊勢神宮は、古代日本では特殊な地位を築いていたが、律令制の崩壊や八幡宮・熊野神社の台頭によって、中世には権勢を失いかけていた。そこで、外宮の度会氏は伊勢神宮の独自性を保つため、独特の神道観を形成していった。ところが、後深草天皇を初め、持明院統の天皇は斎王(未婚の内親王もしくは女王を伊勢の斎宮に送り天照大神の御杖代(みつえしろ)=依り代の巫女として仕えさせること)の制度を無視したため、伊勢神宮はさらに打撃を受け、天皇家との繋がりさえも失いかけていた。このような中、大覚寺統の天皇たちはなるべく斎王を送る制度を尊重したため、度会氏の側でも見返りとして秘伝である伊勢神道の書物を献上するようになっていた。岡野友彦によれば、「神本仏迹」(しんぽんぶつじゃく)、つまり本地垂迹とは逆に、日本の神々の方が本体で仏がその化身であるという、伊勢神道独特の神道優位主義が、鎌倉幕府から自立したがる傾向にある大覚寺統の思想に相通じるものがあったのではないか、という。 度会氏は、元弘2年/正慶元年(1332年)までに、後宇多法皇(後醍醐の父)と後醍醐天皇へ、度会家行が編纂した『類聚神祇本源』を献上し、両帝は同書の叡覧(天子としての閲覧)をした。また、後醍醐天皇は大覚寺統の慣習通り、元徳2年(1330年)に、中宮の西園寺禧子との間に生まれた懽子内親王を斎王として卜定(ぼくじょう、指名)したが、この直後に後醍醐が元弘の乱で隠岐に流されたため、実際に懽子内親王が伊勢に赴くことはなかった。元弘3年(1333年)、鎌倉幕府を打倒して建武の新政を開いた後醍醐は、寵姫阿野廉子との娘の祥子内親王を斎王に卜定したが、数年後に建武の乱で建武政権が崩壊したため、結局祥子内親王が歴史上最後の斎王となってしまった。 その後、延元元年/建武3年(1336年)10月10日、後醍醐側近の北畠親房は、宗良親王を奉じて伊勢国に下向したが、このとき親房が頼ったのが、既に後醍醐天皇との繋がりがある度会家行だった。同地で、親房は家行から初めて伊勢神道を学び、特に伊勢神道の諸書の梗概を編集して成立した『類聚神祇本源』には興味を示して自らの筆で書写し始め、延元2年/建武4年(1337年)7月以降に書写し終わった。その後の親房の著作の中でも、特に『神皇正統記』『元々集』には伊勢神道からの影響が強く見られる。 小笠原春夫は、この時期の度会家行・度会常昌・北畠親房・慈遍らの学派の活動について、「神道史上画期的な一出発の趣をな[す]」と評し、中世末期の吉田神道や近世初期の儒家神道などの後世の神道に対する影響は多大であると述べている。 また、後醍醐天皇と伊勢神道の結びつきは南朝の軍事面にも貢献し、宗教権門として伊勢国の8郡を支配する伊勢神宮からの支援を得た北畠家は、伊勢国に地盤を築くことに成功し、伊勢国司北畠家として、戦国時代末期まで200年以上に渡り同地の大勢力として君臨した。 一方、伊勢神宮の全てが南朝に協力した訳ではなく、中には北朝側についた神主もいた。これは、神宮内部での派閥争いとも関連していると見られているが、詳細は不明であり、後醍醐天皇と伊勢神宮の関係は2010年代時点でも研究され尽くした訳ではない。
※この「神道家」の解説は、「後醍醐天皇」の解説の一部です。
「神道家」を含む「後醍醐天皇」の記事については、「後醍醐天皇」の概要を参照ください。
神道家と同じ種類の言葉
- 神道家のページへのリンク