稲荷信仰とは? わかりやすく解説

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いなり‐しんこう〔‐シンカウ〕【稲荷信仰】


稲荷信仰

読み方:イナリシンコウ(inarishinkou)

五穀つかさどる神である宇迦御魂もしくは御食津神信仰すること。


稲荷信仰

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 14:21 UTC 版)

豊川稲荷」の記事における「稲荷信仰」の解説

前述のとおり、豊川稲荷吒枳尼天鎮守とする。 縁起によると、鎌倉時代禅僧寒巌義尹妙厳寺では法王派の法祖として尊崇)が入宋し、文永4年1267年)、日本へ船で帰国途上吒枳尼天加護受けたのがきっかけとなり、この天を護法神として尊崇するようになったとされるその後寒巌6代目の法孫にあたる東海義易が妙厳寺創建するに際し寒巌自作吒枳尼天像を山門鎮守として祀ったといわれる豊川吒枳尼天の姿は、白狐の背に乗り稲束かついで宝珠持ち岩の上を飛ぶ天女の形である。 また、俗説であるが、平八祀っているともいわれている。妙厳寺開山の時、平八郎名乗る翁の姿をしたがやってきて、寺男として義易によく仕えた。義易が入寂した後は愛用の釜を遺して忽然と姿を消したという。今もこの釜は本殿奥に安置されている。 戦国時代になると、三河領主今川義元徳川家康から外護を受け、また、九鬼嘉隆などの武将からも帰依受けた海上交通守護神四国金毘羅宮知られるが、毛利水軍勢力範囲のため、嘉隆は、家康領内にあり容易に祈願できる豊川稲荷信仰したのではないかといわれる江戸時代になると、大岡忠相渡辺崋山からの信仰を受け、立身出世盗難避けの神として江戸庶民からも信仰されるようになり、文政11年1828年)には、大岡邸の一角借りて江戸参詣所(後の東京別院)が創建された。 江戸時代末期には東海道から豊川稲荷参拝するため、現在の愛知県豊橋市豊川市に石の鳥居立てられた。 皇族においては有栖川家等も帰依し明治初年に「豊川閣」の篇額を寄進したことから、豊川閣とも呼ばれるうになる

※この「稲荷信仰」の解説は、「豊川稲荷」の解説の一部です。
「稲荷信仰」を含む「豊川稲荷」の記事については、「豊川稲荷」の概要を参照ください。

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