創建に至るまで
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台北稲荷神社は、1910年(明治43年)3月20日に台北市粟倉口街(現在の桂林路、華西街、環河南街一帯)にあった豊川稲荷分院内に祀られていたという穴守稲荷の分社を、西門市場へ勧請したのが始まりである。本祀である東京羽田の穴守稲荷神社は、東京周辺の稲荷信仰の拠点として明治以降大きく発展していた神社であり、台湾へ移住した日本人商人の間でも、商売繫昌の神として崇敬を集めていた。 その後、同年4月1日には、穴守稲荷神社から改めて正式な分霊の承認を受け、台湾総督府より創建の為の寄付金集めの許可も受けた。また、同時期に台湾神社が修繕事業を行っていたので、台湾神社古材の撤下も申請している。 同年11月下旬より、基礎工事が行われる。元々は市場に隣接した墓地であったので、土地全体を掘り起こし、土を取り除いて、新たにきれいな土を補充して、神社を祀るのに相応しい土地とした。そして、11年29日には地鎮祭が大々的に斎行された。 1911年(明治44年)2月11日には、上棟祭が斎行され、合わせて社号が「穴守稲荷神社」から「台北稲荷神社」と改称された、改称の詳細な理由は判明していないが、一説には、台北における稲荷信仰の中心地になる事を期待されたためと云われる。 当初は同年3月1日(初午)に鎮座祭を行う予定であったが、発起人側や井村台北庁長の都合により、最終的には6月に延期された。また、総工費の1万円(現在の貨幣価値で数千万円)は民間人からの寄付金が用いられ、400坪の境内地に用材は全て無節の檜を用いて本殿・拝殿・社務所の3棟が建立された。 同年6月24日 - 鎮火祭・新殿祭が斎行される。 同年6月25日 - 鎮座祭・大祭式が斎行される。本来は、鎮座祭は鎮火祭・新殿祭と同日に行い、大祭式は翌日に行うのが故実だが、炎暑の中2日間にわたる祭典は、参列者の負担になることから、午前中に鎮座祭、午後に大祭式という形が取られた。 もちひつく 稲荷の神の さきはへて 里はいよいよ にきひゆくらむ — 台湾神社宮司 山口 透、台北稲荷神社創建に寄せた和歌 高砂の 里を守りの 宮柱 たててしつめつ 豊受の神 — 三村ひでを、台北稲荷神社創建に寄せた和歌 同年10月22日には、寄附金等の行きがかり上、発起人をはじめとした民間で管理していたが、全て台北庁へ引き渡し、今後は台北庁が管理することになった。例月1・15日の祭日の他、25日を遷座記念祭日として毎月同日を祭日とした。
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