創建と由緒
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/10/27 13:52 UTC 版)
「軽部神社 (総社市)」の記事における「創建と由緒」の解説
南北朝時代・建武元年(1334年)、福山城主の大江田氏が紀伊国牟婁郡熊野(熊野三山)より速玉男命、事解男命、伊弉諾尊の三神を勧請して軽部山の峯に社殿を造り、祈願所として創建されたと伝えられる。しかし建武3年(1336年)には、足利直義が福山城・大江田氏を破って社殿も焼失している。 寛正2年(1462年)、深井城主の加藤正倫四代の孫にあたる正長が社殿を同地に再建して三神を祀った(社号:「若一王子権現」)。その後、幸山城主の石川氏により祈願所として祭典が行なわれてきたが、天正3年(1575年)の兵火により社殿を含め全て焼失した。 毛利輝元が当地を領有していた天正4年(1576年)に信徒や氏子らが社殿を再建し、また祭神はかつての三神に天照大神と国常立命の二神を合祀して現在の五神となった(社号:「五社王子権現」)。延宝6年(1678年)、社地を現在の場所(軽部山の山麓)に移転し社殿が改めて建立された。旧社地は通行人や参勤交代の諸公らが通る山頂の山陽道を見下ろす位置にあったため、神の戒めがあるという理由による。 明治2年(1869年)、社号が現在の「軽部神社」に改められた。
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