創建に関する説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 07:08 UTC 版)
文庫の創建に関する一次史料は残されていない。金沢貞顕書状(1304年か)に「文庫書籍、此人(欠字)貸し候事、有るまじく候」とあり、文庫の管理を気にかけていたことが伺える。「金沢文庫」という呼称の初出は鎌倉幕府滅亡後である。南北朝期に称名寺3代長老を務めた湛睿の書状(年代不明)に「金沢文庫随年朽損」とあり、湛睿の代には既に文庫が老朽化していたことになる。 江戸時代の地誌類の多くは貞顕が金沢文庫を創建したとしている。関靖(県立金沢文庫初代館長)は、前記の湛睿書状などをふまえて鎌倉時代中期(おそらく実時の在世中)の創建とした。関説がおおむね定説化しており、実時が金沢に隠退した建治元年(1275年)頃の創建と言われているが、1302年前後(貞顕の代)とする異論もある。貞顕が文庫の荒廃を嘆いていたとされる文書が残り、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}また貞時?を金沢文庫創建者とする文書も見られることから、貞顕が文庫の再建を行っている可能性も指摘される。[要出典]
※この「創建に関する説」の解説は、「金沢文庫」の解説の一部です。
「創建に関する説」を含む「金沢文庫」の記事については、「金沢文庫」の概要を参照ください。
- 創建に関する説のページへのリンク