創建に関わる異説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 21:02 UTC 版)
当初の四天王寺は現在地ではなく、上町台地の北部に位置する玉造(JR森ノ宮駅付近)の岸上にあり、推古天皇元年(593年)から現在地で本格的な伽藍造立が始まったという解釈もある(鵲森宮の社伝では、隣接する森之宮公園の位置に「元四天王寺」があったとするが、鵲森宮が元四天王寺の存在を示す根拠に挙げる「難波古絵図」には、石山(現:大阪城本丸)の東隣に「四天王寺跡」が描かれており、四天王寺跡と接する東の河川が現在の大阪城東外堀であることから「元四天王寺」は現在の大阪城二の丸梅林付近に存在したこととなり社伝と矛盾している)。また、建立の動機も、丁未の乱で敗死した物部守屋とその一族の霊を鎮めるため、とりあえず守屋の最後の拠点の玉造の難波邸宅跡(元大阪樟蔭女子大教授今井啓一は鵲森宮が難波の守屋の宅跡と推測する)に御堂を営んだ6年後、荒陵の地に本格的な伽藍建築が造営されたのだとされる。現在四天王寺には守屋祠(聖徳太子の月命日22日に公開。物部守屋、弓削小連、中臣勝海を祀る)があり、寺の伝説には守屋が四天王寺をキツツキになって荒らしまわり、それを聖徳太子が白鷹となって退治したとの縁起が残っており守屋らの社を見下ろす伽藍の欄干に太子の鷹の止まり木が設置されているなどから、御陵社の意味合いを推察する向きもある。 山号の「荒陵山」から、かつてこの近くに大規模な古墳があり、四天王寺を造営する際それを壊したのではないかという説もある。四天王寺の庭園の石橋には古墳の石棺が利用されていることはその傍証とされている。例えば、大阪市住吉区にある帝塚山古墳は、「大帝塚山」、「小帝塚山」と地元で称されているものがあり、現在一般的に帝塚山古墳と呼ばれているのは「大帝塚山」である。その大帝塚山は、別名荒陵とも呼ばれていた。なお、小帝塚山は、住吉中学校の敷地内にあったといわれている。また、東高津宮は、仁徳天皇の皇居であるとする1898年(明治31年)の大阪府の調査報告などがあることから、歴代天皇のいずれかの皇居であったのではないかという説もある。 現在の大阪市東淀川区豊里の東部は、元は西成郡天王寺庄村といった。四天王寺の建立予定地であったという伝承による。なお、8世紀の西成郡と隣接する東生郡の郡領は、吉士系で占められていたとする推察がある。 20世紀末から「日本仏教興隆の祖としての『聖徳太子』は虚構であった」とする言説が盛んになり、『書紀』の記述に疑問を呈する向きもある。また、上記の『書紀』批判の記述とは別に、孝徳朝創建説、阿倍氏創建説、難波吉士氏寺説があり、加藤謙吉は孝徳朝以降の造営事業は「少なくとも四天王寺を豪族の私寺的なものとみることはできない」とする。
※この「創建に関わる異説」の解説は、「四天王寺」の解説の一部です。
「創建に関わる異説」を含む「四天王寺」の記事については、「四天王寺」の概要を参照ください。
- 創建に関わる異説のページへのリンク