創建・奈良時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/10 00:02 UTC 版)
相模国分寺の創建に関して、その遺構が法隆寺式の伽藍配置を成すことから、豪族の氏寺として建てられた寺を8世紀半ば以降国分寺にしたと推測する説があった。しかし寺域内から奈良時代初期の住居跡が発掘され、豪族の氏寺を国分寺に転用した説は否定されている。 また、相模の国分寺は元々は現在の小田原市にある千代廃寺であるとして、その後海老名の地に移転したとの説も出されている。しかし海老名の寺院跡において、発掘された瓦の形式などから創建は8世紀半ばと推定されるようになり、741年の聖武天皇の詔によって建立された国分寺である可能性が高まっている。しかし現在でも最初の相模国分寺が千代廃寺であったとの説も残っている。 相模国分寺の大きな謎の1つは、国分寺が相模国府の近くに建てられなかった可能性が高いことである。諸国国分寺は国府付近に建設される例が多いが、相模国の場合には国分寺の近くに国府と見られる遺構は現在のところ見つかっていない。相模国分寺の近くに未発見の初代相模国府があるとの説も残っているが、現在のところ今の平塚市四之宮にある遺跡群が最初の相模国府であったとの説が有力である。国府から離れた場所に国分寺が建設された理由について未だ定説はないが、多くの関東地方の寺院建設に携わった壬生氏が、高座郡を根拠地としていたからではないかとの説がある。 国分尼寺については、出土瓦の年代や相模国分寺の南北軸とずれた配置などから、国分寺の創建よりも少し遅れて8世紀第四四半期頃に建立されたと考えられている。
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