創建から江戸時代
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江戸時代以前の歴史は 射水神社 歴史 創建から江戸時代 を参照のこと。
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創建から江戸時代
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創建は奈良時代以前のこととされる。社伝によれば、当神社は二上山を神奈備とし、太古よりその麓に鎮座していたが、養老元年(717年)に行基が勅を受けて二上山麓に別当寺を建立し、二上神を二上権現と称して祀ったのだと言う。別当寺は山号を「二上山」、寺号を「養老寺」と言い、二上山全体を境内として社地殿閣広大であったと伝えられている。しかし、『日本の神々 -神社と聖地- 8 北陸』によれば、この養老元年開基説については疑問を呈する向きが多いと言う。 当神社は二上神の名で度々六国史に登場し、神階の陞叙を受けている。以下は時系列的に並べた神階の授与である。 宝亀11年(780年)12月14日条、越中国射水郡の二上神を従五位下に叙す(『続日本紀』)。 延暦14年(795年)8月18日条、越中国の二上神を従五位上に叙す(『日本後紀』)。 承和7年(840年)9月29日、越中国射水郡の二上神を従四位下から従四位上に陞叙する(『続日本後紀』)。 斉衡元年(854年)3月7日、越中国の二上神に従三位を加える(『日本文徳天皇実録』)。 貞観元年(859年)1月27日、越中国の二上神を従三位から正三位に陞叙する(『日本三代実録』)。 いずれの陞叙も高瀬神社と同時・同階で、共に越中国最高位の神社として朝野の崇敬を受けていた。『日本文徳天皇実録』斉衡元年(854年)12月27日の条では、二上神の禰宜と祝(ほうり)が把笏に預かったことが記載されているが、『日本の神々 -神社と聖地- 8 北陸』によれば、古代に笏を把ることを許されたのは伊勢神宮と諸大社の神職のみであったと言う。 8世紀後半に成立したと言われる『万葉集 巻17』には、大伴家持によって当神社を詠んだ和歌が収録されている。 千妙聖人が著述したものに、長寛元年(1163年)白山中宮の長吏隆厳が私注を加えて成立したと伝えられる『白山之記』には、聖武天皇の治世である神亀年間に越中国から能登国が分立した際、越中国二宮であった当神社が一宮になったこと、その後、越中国に新気多(気多神社)が奉祝されると、新気多と当神社の間に一宮争いが起こり、当神社が無力の間に新気多が一宮になった、との記事がある。 延長5年(927年)には『延喜式神名帳』へ記載され、式内社となった。『延喜式神名帳』では越中国射水郡の式内13社を大社1座・小社12座としているが、当神社は『延喜式』写本のうち「出雲本」において名神大社と記載されている。しかし、「宮内省図書寮本」や『延喜式』最古の写本である「九条本」では気多神社が名神大社と記載されている。これについて、一般的に「出雲本」は誤記とみなされ、現在は「宮内省図書寮本」や「九条本」を支持して気多神社を名神大社する説が有力となっている、と『日本の神々 -神社と聖地- 8 北陸』では述べている。しかしながら、『延喜式』の「名神祭」の項には、気多神社も当神社も記載が無い。 橋本芳雄は『式内社調査報告 第17巻』で上記に対し異説を唱えている。それによれば、大伴家持が越中国国守として在勤したのは、ちょうど能登国が越中国に合併されていた時期で、大伴家持の歌日記のごとき『万葉集』の巻17、巻18、巻19には当時の様子が詳細に詠われているにもかかわらず、越中国府の間近にあったはずの気多神社に関する記述が全く見えないのは、この頃まだ気多神社が存在していなかったことを暗示しているのではないか、と推定している。その上で、気多神社が『延喜式神名帳』で名神大社とされながら、射水郡式内社13座の最後に配列されているのは、創立年次が最も新しいことを暗示しているのではないか、と推察した。さらに同書では、当神社を名神大社とする「出雲本」が古い時代の形を留めており、『白山之記』にある一宮争いの記事などから、本来の名神大社は当神社であったのが、国府に近い気多神社が、天平宝字元年(757年)前後に気多大社から分祠された後、国府の権力を背景に名神大社を獲得したのではないか、と推測している。六国史を通覧した際も、当神社や高瀬神社が6度登場するのに対し、気多神社は全く記載がなく、『日本の神々 -神社と聖地- 8 北陸』では「不思議な現象と見るべきであろう。」と述べている。 承平年間の兵火により、社殿が焼失した。『中世諸国一宮制の基礎的研究』によれば、縁起もあったが乱世の時代に散失し、別当養老寺の住職も逐電して堂社破滅におよんだが、別当の慈尊院、本覚坊、金光院の3ヶ寺だけが祈祷を勤め、お札を献上していたことが『二上山大権現由来記』に記されている、と述べている。『富山県史 史料編2 中世』に所収された『後土御門天皇綸旨』よれば、その後の文明7年(1475年)に越中国の棟別銭によって社殿が造営されたと言う。 戦国時代末期の天正年間にも社殿が焼失するが、江戸時代に入り加賀藩の祈祷所となって復興した。慶長15年(1610年)加賀藩初代藩主前田利長により御供田が寄進され、同時に越中4郡から知識米(初穂米)軒別1升2合の徴収が許された。この徴収には二上山所属の山伏があたり、大国様のように袋を担いだ彼らは「ガンマンブロ」と通称されて、泣く子も黙るほど民衆に恐れられた、と『日本の神々 -神社と聖地- 8 北陸』では述べている。『式内社調査報告 第17巻』によれば、この徴収制度はかなり古くからあった慣習を、加賀藩が復活させたものと考えられているのだと言う。
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