創建から江戸時代とは? わかりやすく解説

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創建から江戸時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 18:01 UTC 版)

二上射水神社」の記事における「創建から江戸時代」の解説

江戸時代以前の歴史射水神社 歴史 創建から江戸時代 を参照のこと。

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創建から江戸時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/07 20:45 UTC 版)

射水神社」の記事における「創建から江戸時代」の解説

創建奈良時代以前こととされる。社伝によれば、当神社二上山神奈備とし、太古よりその麓に鎮座していたが、養老元年717年)に行基が勅を受けて二上山麓に別当寺建立し二上神を二上権現称して祀ったのだと言う別当寺山号を「二上山」、寺号を「養老寺と言い二上山全体境内として社地殿閣広大であった伝えられている。しかし、『日本の神々 -神社聖地- 8 北陸によれば、この養老元年開基説については疑問を呈する向きが多いと言う。 当神社二上神の名で度々六国史登場し神階陞叙受けている。以下は時系列的に並べた神階授与である。 宝亀11年780年12月14日条、越中国射水郡二上神を従五位下叙す『続日本紀』)。 延暦14年795年8月18日条、越中国二上神を従五位上叙す(『日本後紀』)。 承和7年840年9月29日越中国射水郡二上神を従四位下から従四位上陞叙する(『続日本後紀』)。 斉衡元年854年3月7日越中国二上神に従三位加える(『日本文徳天皇実録』)。 貞観元年859年1月27日越中国二上神を従三位から正三位陞叙する(『日本三代実録』)。 いずれの陞叙高瀬神社同時・同階で、共に越中国最高位神社として朝野崇敬受けていた。『日本文徳天皇実録斉衡元年854年12月27日の条では、二上神の禰宜と祝(ほうり)が把笏預かったことが記載されているが、『日本の神々 -神社聖地- 8 北陸によれば古代に笏を把ることを許されたのは伊勢神宮と諸大社神職のみであったと言う8世紀後半成立したと言われる万葉集17』には、大伴家持によって当神社詠んだ和歌収録されている。 千妙聖人著述したものに、長寛元年1163年白山中宮長吏隆厳が私注加えて成立した伝えられる白山之記』には、聖武天皇治世である神亀年間越中国から能登国分立した際、越中国二宮であった神社一宮になったこと、その後越中国に新気多気多神社)が奉祝されると、新気多と当神社の間に一宮争い起こり、当神社無力の間に新気多一宮になった、との記事がある。 延長5年927年)には『延喜式神名帳』へ記載され式内社となった。『延喜式神名帳』では越中国射水郡式内13社を大社1座・小社12座としているが、当神社は『延喜式写本のうち「出雲本」において名神大社記載されている。しかし、「宮内省図書寮本」や『延喜式最古写本である「九条本」では気多神社名神大社記載されている。これについて、一般的に出雲本」は誤記みなされ、現在は「宮内省図書寮本」や「九条本」を支持して気多神社名神大社する説が有力となっている、と『日本の神々 -神社聖地- 8 北陸』では述べている。しかしながら、『延喜式』の「名神祭」の項には、気多神社も当神社記載が無い。 橋本芳雄は『式内社調査報告 第17巻』で上記対し異説唱えている。それによれば大伴家持越中国国守として在勤したのは、ちょうど能登国越中国合併されていた時期で、大伴家持の歌日記のごとき『万葉集』の巻17、巻18、巻19には当時の様子詳細に詠われているにもかかわらず越中国府の間近にあったはずの気多神社に関する記述が全く見えないのは、この頃まだ気多神社存在していなかったことを暗示しているのではないか、と推定している。その上で気多神社が『延喜式神名帳』で名神大社とされながら、射水郡式内社13座の最後に配列されているのは、創立年次が最も新しいことを暗示しているのではないか、と推察した。さらに同書では、当神社名神大社とする「出雲本」が古い時代の形を留めており、『白山之記』にある一宮争い記事などから、本来の名神大社は当神社であったのが、国府に近い気多神社が、天平宝字元年757年前後気多大社から分祠された後、国府権力背景名神大社獲得したではないか、と推測している。六国史通覧した際も、当神社高瀬神社6度登場するのに対し気多神社は全く記載がなく、『日本の神々 -神社聖地- 8 北陸』では「不思議な現象見るべきであろう。」と述べている。 承平年間兵火により、社殿焼失した。『中世諸国一宮制基礎的研究によれば縁起もあったが乱世時代散失し、別当養老寺住職逐電して堂社破滅およんだが、別当慈尊院本覚坊金光院の3ヶ寺だけが祈祷勤めお札献上していたことが『二上山大権現由来記』に記されている、と述べている。『富山県史料編2 中世』に所収された『後土御門天皇綸旨』よれば、その後文明7年1475年)に越中国棟別銭によって社殿造営されと言う戦国時代末期天正年間にも社殿焼失するが、江戸時代入り加賀藩祈祷となって復興した慶長15年1610年加賀藩初代藩主前田利長により御供田寄進され同時に越中4郡から知識米(初穂米)軒別1升2合の徴収許された。この徴収には二上山所属山伏があたり、大国様のように袋を担いだ彼らは「ガンマンブロ」と通称されて、泣く子も黙るほど民衆恐れられた、と『日本の神々 -神社聖地- 8 北陸』では述べている。『式内社調査報告 第17巻によれば、この徴収制度はかなり古くからあった慣習を、加賀藩復活させたものと考えられているのだと言う

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