奈良時代以前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 03:55 UTC 版)
婚姻の制限の規定は、天皇の血縁的尊貴性を高めるために設けられたと考えられている。古代社会の身分制おいては血統が重要視されていたため、「天皇-臣下の女子」の子孫に対し、「皇族女子-臣下の男子」の子孫という、血縁的尊貴性が類似した系譜が生じることを防ぐ必要性があった。第16代仁徳天皇の時代に、既に異母兄妹婚が多くみられることから、5世紀初頭までに皇親女子の婚出規制が設けられていたと考えられている。 内親王の結婚相手は律令の『継嗣令』では天皇もしくは四世以上の皇親に限るとされ、古代には非皇族との結婚はなかった。 また、それ以外の皇親女子の婚姻に関する規定もほぼ同じであり、当時皇親としての法的扱いの範囲外とされ、皇親女子の称号であった「女王」を名乗ることのみが許されていた「五世王」(天皇から5世の子孫)の女性と臣下の婚姻が認められるに過ぎなかった。なお、慶雲3年(706年)2月16日の格によって、五世王と臣下の婚姻も禁じられている(『続日本紀』)。古代においては、内親王の身位は保持することができた。このように、8世紀以前においては、6世以降の皇親女子しか臣下との婚姻が認められていなかった。 今江広道の研究によれば、8世紀においても3例の皇親女子と臣下の婚姻があるが、上記の規定内又はかろうじて抵触する程度の世数の皇親女子であった。明らかに抵触する例としては、加豆良女王(舎人親王の娘、3世王)と藤原久須麻呂の婚姻がある。これは、久須麻呂の父藤原仲麻呂の権勢によって、強引に成立させられたものと考えられている。また、山背王の娘と藤原巨勢麿の婚姻も、山背王の父長屋王が失脚後、山背王が臣籍に下り「藤原弟貞」となり親仲麻呂派として仲麻呂との関係を深めるために画策されたと考えられ、その時期は天平勝宝9年以降であり、適法であると考えられている。 以上のことから、加豆良女王と藤原久須麻呂の婚姻を除き、規定は厳格に運用されていた。
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