奈良時代以降の吉備氏と吉備諸氏
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「吉備氏」の記事における「奈良時代以降の吉備氏と吉備諸氏」の解説
7世紀以降、上道臣・三野臣・賀夜(香屋・賀陽)臣・苑臣・下道臣・笠臣らの氏族が残り、多くは国造や郡司などの在地の有力豪族であったが、中央貴族として立身した者も少なくない。 吉備笠垂は古人大兄皇子の反乱を告発して名を上げ、上道斐太都は橘奈良麻呂の乱に功績によって異例の特進を遂げた。笠金村は8世紀前半に宮廷歌人として活躍し、下道真備(吉備真備)は唐に留学し、帰国してからはブレーンとして朝政に参画して重用された。また、臨済宗の開祖明菴栄西は吉備津神社社家の賀陽氏の出身である。 しかし、この中で上道氏だけが詳細な系図を残しておらず、吉備上道兄君・吉備上道弟君より後の系譜は不明である。
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