奈良時代~平安時代初期とは? わかりやすく解説

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奈良時代~平安時代初期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/06 07:38 UTC 版)

近代以前の日本の人口統計」の記事における「奈良時代~平安時代初期」の解説

鬼頭宏725年推定人口は、鎌田元一(1984年)に依拠している。即ち1郷当たり推定良民人口1052人に『和名類聚抄記載の郷数(4041)を乗じた値を政府掌握人口(4251100人)とし、賎民人口(良民人口4.4%、187050人)と岸俊男による平城京推定人口(74000人)を加算し4512200人と算出している。なおこの計算方法横山由清(1879年)によって提唱されたものだが、澤田吾一(1927年)は『和名類聚抄記載の郷数(4041)を疑い、『宋史日本伝』記載の3772郷414駅に着目し、1駅を半郷相当、1郷当たり推定人口を1399人、平城京推定人口20万人として奈良時代推定人口577万人算出している。 ファリス730年推定人口澤田吾一鎌田元一(1984年)の同様の手法依拠している。『律書残篇記載の郷数(4012)に1郷当たり推定人口1250~1400人を乗じ都市人口15万人(平城京難波大宰府合計)、計外人10万人として580640万人算出している。 鬼頭宏800年推定人口は、澤田吾一依拠している。澤田吾一は『弘仁式』、『延喜式』の出挙稲数に、陸奥弘仁課丁数(34790人)との比(27.07人/1000弘仁出挙束、または21.98人/1000延喜出挙束)を乗じて旧国課丁数を推計し戸籍計帳断簡より求めた8世紀後半課丁数人口比(課丁数18.7人/人口100人)を推定した。また畿内の内、山城大和河内摂津については課丁の率を半分仮定し(課丁数18.7人/人口200人)、対馬多禰志摩平城京推定人口7000人、3700人、6500人、20万人加えることで総人口5599200人(弘仁式)、または5573100人(延喜式)を算出し両者平均である560万人奈良時代推定良民人口考えた。さらに賤民遺漏人口100万人と見積もり奈良時代全人口を約600700万人推定した1979年から1982年にかけて発掘され茨城県石岡市鹿の子C遺跡より出土した延暦4年(795年)の常陸国官戸人口(191660人、これに神封戸推定人口3万2千~5万3千人加えた224千~244千人常陸国推定戸籍人口)を記した漆紙文書により、鎌田元一澤田吾一推定人口平安初期のものとみなすべきだと指摘し鬼頭宏推定人口でも澤田吾一推定人口800年のものとして扱われている。ただし平安京人口井上満郎による推定人口12万人とすることで、弘仁延喜式平均推定人口5506200人を算出している。

※この「奈良時代~平安時代初期」の解説は、「近代以前の日本の人口統計」の解説の一部です。
「奈良時代~平安時代初期」を含む「近代以前の日本の人口統計」の記事については、「近代以前の日本の人口統計」の概要を参照ください。

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