奈良時代~平安時代初期
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「近代以前の日本の人口統計」の記事における「奈良時代~平安時代初期」の解説
鬼頭宏の725年の推定人口は、鎌田元一(1984年)に依拠している。即ち1郷当たり推定良民人口1052人に『和名類聚抄』記載の郷数(4041)を乗じた値を政府掌握人口(425万1100人)とし、賎民人口(良民人口の4.4%、18万7050人)と岸俊男による平城京の推定人口(7万4000人)を加算し、451万2200人と算出している。なおこの計算方法は横山由清(1879年)によって提唱されたものだが、澤田吾一(1927年)は『和名類聚抄』記載の郷数(4041)を疑い、『宋史日本伝』記載の3772郷414駅に着目し、1駅を半郷相当、1郷当たり推定人口を1399人、平城京の推定人口を20万人として奈良時代の推定人口577万人を算出している。 ファリスの730年の推定人口は澤田吾一と鎌田元一(1984年)の同様の手法に依拠している。『律書残篇』記載の郷数(4012)に1郷当たり推定人口1250~1400人を乗じ、都市人口15万人(平城京、難波、大宰府の合計)、計外人口10万人として580万~640万人を算出している。 鬼頭宏の800年の推定人口は、澤田吾一に依拠している。澤田吾一は『弘仁式』、『延喜式』の出挙稲数に、陸奥の弘仁の課丁数(3万4790人)との比(27.07人/1000弘仁出挙束、または21.98人/1000延喜出挙束)を乗じて各旧国の課丁数を推計し、戸籍・計帳断簡より求めた8世紀後半の課丁数人口比(課丁数18.7人/人口100人)を推定した。また畿内の内、山城、大和、河内、摂津については課丁の率を半分と仮定し(課丁数18.7人/人口200人)、対馬、多禰、志摩、平城京の推定人口7000人、3700人、6500人、20万人を加えることで総人口559万9200人(弘仁式)、または557万3100人(延喜式)を算出し、両者の平均である560万人を奈良時代の推定良民人口と考えた。さらに賤民や遺漏人口を100万人と見積もり、奈良時代の全人口を約600万~700万人と推定した。 1979年から1982年にかけて発掘された茨城県石岡市の鹿の子C遺跡より出土した延暦4年(795年)の常陸国の官戸人口(19万1660人、これに神封戸の推定人口3万2千~5万3千人を加えた22万4千~24万4千人が常陸国の推定総戸籍人口)を記した漆紙文書により、鎌田元一は澤田吾一の推定人口は平安初期のものとみなすべきだと指摘し、鬼頭宏の推定人口でも澤田吾一の推定人口が800年のものとして扱われている。ただし平安京の人口を井上満郎による推定人口12万人とすることで、弘仁・延喜式の平均推定人口550万6200人を算出している。
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