澤田吾一(さわだごいち 1861-1931)
澤田吾一は、文久元年に美濃国厚見郡野一色村の庄屋の長男として生まれた。5歳のころから岡崎寿仙に
「四書」や「唐詩選」を学び、また和算家広江永貞に算数を学んだ。
明治11年10月、明治天皇の御前で「物理学熱論の実験講義」をする栄に浴した。それは中学校を卒業する直前の17歳の時であった。明治15年(1882)には上京し、東京本郷にあった同郷の浅井道博宅に身を寄せ、そして参謀本部測量課に職を得た。
澤田が頼った浅井道博は、沼津兵学校で陸地測量術を教授した人である。維新後は陸軍兵学寮の兵学頭(大佐)、明治14年から同18年までは参謀本部副官、16年2月からは海防局長、のちに陸軍歩兵大佐となった。
澤田の数学の才能は出仕した参謀本部で大いに役立ったという。しかし、浅井道博は澤田の数学の才能はそれを超えるものがあることを知り、同じ町内にあった数学者・物理学者の菊地大麓に澤田の身をゆだねる。
菊池もまた澤田の才を見抜き第一高等中学校の数学授業を担当させる。その後、東京帝大理科大学物理学科三学年に編入学、翌年には卒業、金沢の第四高等学校の教授(明治25五年)、東京帝大大学院に入学(明治28年中退)、そして陸軍参謀本部時代の縁からか陸軍教授となる。明治三十年には東京高等商業(現一橋大)の教授(明治30年)、東京帝大文学部国史科に再入学(大正9年)。その後、奈良朝期の民政経済史の解明を目的とした『奈良朝時代民政経済の数的研究』に着手、出版した(昭和2年)。
これらが、澤田吾一と地図測量とのわずかなかかわりである。
沢田吾一
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/11/01 03:18 UTC 版)
![]() | この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。2022年11月) ( |
沢田 吾一(さわだ ごいち、1861年10月26日(文久元年9月23日) - 1931年3月12日)は、日本の数学者、日本の数字・数学史学者。
経歴
![]() | この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。2022年11月) ( |
美濃国厚見郡一色村(現・岐阜市)出身。明治15年(1881年)陸軍省御用掛となり、参謀本部測量課に勤務。1886年第一高等中学校(現・東京都立日比谷高等学校)数学授業嘱託、1887年同教師。1891年帝国大学理科大学物理学科卒。菊池大麓に師事。1896年大学院中退。1892年第四高等学校教授、96年陸軍中央幼年学校教授、97年東京高等商業学校(現・一橋大学)教授。1917年定年退官。東京帝国大学文学部国史学科に入学し、1923年、63歳で卒業。1927年大著「奈良朝時代民政経済の数的研究」を刊行した。[1]
編著書
- 『算術新教科書』編 冨山房 1897
- 『中等代数学教科書』編 大日本図書 1897
- 『解析幾何学大意』冨山房 1899
- 『高等小学筆算教本 生徒用』編 冨山房 1899
- 『算術教科書』冨山房 1902
- 『代數學教科書』冨山房 1903
- 『微分積分学綱要』冨山房 1904
- 『代数教科書 中等教材』冨山房 1911
- 『財政商業高等利息算』冨山房 1914
- 『奈良朝時代民政経済の数的研究 附・諸国人口、斗量、衣食住』冨山房 1927 柏書房、1972
- 『日本数学史講話』刀江書院 1928
共編
- 『初等平面三角法教科書』菊池大麓共編 大日本図書 1893
注
- 澤田吾一のページへのリンク