古文書に記載された人口とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 古文書に記載された人口の意味・解説 

古文書に記載された人口

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/06 07:38 UTC 版)

近代以前の日本の人口統計」の記事における「古文書に記載された人口」の解説

古代日本人口は、『魏志倭人伝』に始まり様々な雑記記載されている。 『魏志倭人伝』によると、邪馬台国七国で計159000戸余を数えたとしている。日本最初戸口調査『日本書紀』によると、崇神天皇12年(紀元前86年)に行われたとされる。また天智天皇9年(西暦670年)に全国戸籍庚午年籍」が作成されたとするが、木簡研究からは戸数把握に留まっていとみられる持統天皇4年(690年)に「庚寅年籍」が作成されると、以降6年毎に戸籍作り直す「六年一造」が始まったしかしながら作成され戸籍30年破棄する措置取られたため、現在では戸籍断片や一地域人口集計伝わっているのみである。現存する最古戸籍正倉院紙背文書として保存され大宝二年籍で、大宝2年(702年)の美濃国加毛郡半布里美濃国間郡春部里、筑紫国郡川辺里、豊前国仲津郡丁里の戸籍養老5年(721年)の下総国葛飾郡大嶋郷の戸籍など、飛鳥時代・奈良時代・平安時代戸籍計帳48点が残っており、家族奴婢構成など記載されている。 平安時代初期まで改籍が実施されたが、律令制後退と有力貴族による荘園制成立により、全国単位での戸籍自体作成が行われなくなった現存する最後古代籍帳寛弘元年(1004年)に作成され讃岐国大内郡入野郷の戸籍である。鎌倉時代室町時代通じ国領荘園内部戸籍類似のもの作られていたことは、御成敗式目における戸籍上の規定存在から類推できるものの、史料が全く残っていない。戦国時代になると一部戦国大名農兵動員や銭賦課把握目的から領内人口調査実施するようになり、例え後北条氏の「分国中人改」などが知られている。豊臣秀吉天正19年(1591年)あるいは文禄元年(1592年)に人掃令出し朝鮮出兵のための動員数把握目的全国規模人口調査命じた。この時の戸口調査がどの程度まで実施されたかは不明であるが、徳島藩実施された「棟付改」、細川藩領(小倉藩熊本藩)で実施された「人畜改」などは、秀吉の命を受けて実施され戸口調査続いたものと考えられている。江戸時代前期にはキリシタン取締り目的などにより寺請制度と「宗門人別改」が成立し享保6年(1721年)以降徳川吉宗による諸国人数調査実施されることとなる。 古代より中世人口は、いくつかの年代総人口仏閣関係者書物記載されているが、何れも信頼に足る数字ではなく男女比が異常である。横山由清(1879年)はこのような男女比は、課丁逃れのために男を女と偽って報告したことに起因する考えた一方澤田吾一(1927年)は、頻繁に言及される49800万という数字仏典関連のある数字であり、戸籍などから起こした実数ではないと指摘している。また蝦夷など異民族人口不明である。 文献登場する日本総人口年代元号西暦総数男女出典崇峻天皇2年 589年 3,931,152 910,420 3,017,033 聖徳太子伝記(『大日本国古来人口考』引用) 聖徳太子 574–622年 5,030,950 1,914,020 3,116,930 太子伝抄(『温故要略引用) 4,988,842 1,994,008 2,994,834 太子伝(『它山石初編引用) 5,031,050 1,914,120 3,116,930 太子伝抄(『它山石初編引用) 聖徳太子摂政時 593–622年 4,969,890 折焚の記、類聚名物考 推古天皇御世 593–628年 4,969,000 町人嚢底払 4,990,000 両域人数考、十玄遺稿(『它山石初編引用) 4,969,899 皇風大意 養老5年 721年 4,584,893 1,904,082 2,590,811 行基大菩薩行状記 聖武天皇御世 724-748年 5,000,000 行基式目(『遊京漫録引用) 4,276,800 1,954,800 2,322,000 日本国之図 4,899,648 1,994,828 2,904,820 扶桑国之図 11,099,648 9,094,828 2,004,820 南贍部州大日本国正統図(『運歩色葉集引用) 4,588,842 1,994,008 2,594,834 南贍部州大日本国正統図(『運歩色葉集引用) 4,899,620 1,994,800 2,904,820 行基菩薩図(『世俗用字集』引用) 8,631,074 折焚の記、類聚名物考 4,508,951 類聚名物考 8,000,000 十玄遺稿(『它山石初編引用)、両域人数考 8,631,000 町人嚢底払 8,631,770 皇風大意 弘安2年 1279年 4,989,658 1,994,828 2,994,830 高祖遺文録 4,994,828 高祖遺文弘安3年 1280年 4,989,658 1,994,828 2,994,830 高祖遺文弘安4年 1281年 4,589,659 高祖遺文録 4,994,828 高祖遺文録 4,589,658 高祖遺文弘安年間 1278-1287年 4,994,828 1,994,828 2,994,830 類聚名物考 鎌倉時代? 4,861,659 1,924,828 2,936,831 日本略記 大永8年 1528年 4,918,652 権少僧都俊貞雑記集(『先生雑著引用) 永禄5年 1562年 4,994,800 1,994,828 2,994,830 香取文書

※この「古文書に記載された人口」の解説は、「近代以前の日本の人口統計」の解説の一部です。
「古文書に記載された人口」を含む「近代以前の日本の人口統計」の記事については、「近代以前の日本の人口統計」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「古文書に記載された人口」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「古文書に記載された人口」の関連用語

古文書に記載された人口のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



古文書に記載された人口のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの近代以前の日本の人口統計 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS