古文書に記載された人口
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「近代以前の日本の人口統計」の記事における「古文書に記載された人口」の解説
古代日本の人口は、『魏志倭人伝』に始まり、様々な雑記に記載されている。 『魏志倭人伝』によると、邪馬台国他七国で計15万9000戸余を数えたとしている。日本で最初の戸口調査は『日本書紀』によると、崇神天皇12年(紀元前86年)に行われたとされる。また天智天皇9年(西暦670年)に全国戸籍「庚午年籍」が作成されたとするが、木簡の研究からは戸数の把握に留まっていたとみられる。持統天皇4年(690年)に「庚寅年籍」が作成されると、以降6年毎に戸籍を作り直す「六年一造」が始まった。しかしながら作成された戸籍は30年で破棄する措置が取られたため、現在では戸籍の断片や一部地域の人口集計が伝わっているのみである。現存する最古の戸籍は正倉院の紙背文書として保存された大宝二年籍で、大宝2年(702年)の美濃国加毛郡半布里、美濃国蜂間郡春部里、筑紫国嶋郡川辺里、豊前国仲津郡丁里の戸籍、養老5年(721年)の下総国葛飾郡大嶋郷の戸籍など、飛鳥時代・奈良時代・平安時代の戸籍・計帳計48点が残っており、家族・奴婢の構成などが記載されている。 平安時代初期まで改籍が実施されたが、律令制の後退と有力貴族による荘園制の成立により、全国単位での戸籍自体の作成が行われなくなった。現存する最後の古代籍帳は寛弘元年(1004年)に作成された讃岐国大内郡入野郷の戸籍である。鎌倉時代、室町時代を通じ、国領や荘園内部で戸籍類似のものが作られていたことは、御成敗式目における戸籍上の規定の存在から類推できるものの、史料が全く残っていない。戦国時代になると一部の戦国大名は農兵動員や銭賦課把握の目的から領内の人口調査を実施するようになり、例えば後北条氏の「分国中人改」などが知られている。豊臣秀吉は天正19年(1591年)あるいは文禄元年(1592年)に人掃令を出し、朝鮮出兵のための動員数把握の目的で全国規模の人口調査を命じた。この時の戸口調査がどの程度まで実施されたかは不明であるが、徳島藩で実施された「棟付改」、細川藩領(小倉藩・熊本藩)で実施された「人畜改」などは、秀吉の命を受けて実施された戸口調査が続いたものと考えられている。江戸時代前期にはキリシタン取締りの目的などにより寺請制度と「宗門人別改」が成立し、享保6年(1721年)以降、徳川吉宗による諸国人数調査が実施されることとなる。 古代より中世の人口は、いくつかの年代の総人口が仏閣関係者の書物に記載されているが、何れも信頼に足る数字ではなく、男女比が異常である。横山由清(1879年)はこのような男女比は、課丁逃れのために男を女と偽って報告したことに起因すると考えた。一方澤田吾一(1927年)は、頻繁に言及される49や800万という数字は仏典に関連のある数字であり、戸籍などから起こした実数ではないと指摘している。また蝦夷など異民族の人口は不明である。 文献に登場する日本の総人口年代・元号西暦総数男女出典崇峻天皇2年 589年 3,931,152 910,420 3,017,033 聖徳太子伝記(『大日本国古来人口考』引用) 聖徳太子 574–622年 5,030,950 1,914,020 3,116,930 太子伝抄(『温故要略』引用) 4,988,842 1,994,008 2,994,834 太子伝(『它山石初編』引用) 5,031,050 1,914,120 3,116,930 太子伝抄(『它山石初編』引用) 聖徳太子摂政時 593–622年 4,969,890 折焚柴の記、類聚名物考 推古天皇御世 593–628年 4,969,000 町人嚢底払 4,990,000 両域人数考、十玄遺稿(『它山石初編』引用) 4,969,899 皇風大意 養老5年 721年 4,584,893 1,904,082 2,590,811 行基大菩薩行状記 聖武天皇御世 724-748年 5,000,000 行基式目(『遊京漫録』引用) 4,276,800 1,954,800 2,322,000 日本国之図 4,899,648 1,994,828 2,904,820 扶桑国之図 11,099,648 9,094,828 2,004,820 南贍部州大日本国正統図(『運歩色葉集』引用) 4,588,842 1,994,008 2,594,834 南贍部州大日本国正統図(『運歩色葉集』引用) 4,899,620 1,994,800 2,904,820 行基菩薩図(『世俗用字集』引用) 8,631,074 折焚柴の記、類聚名物考 4,508,951 類聚名物考 8,000,000 十玄遺稿(『它山石初編』引用)、両域人数考 8,631,000 町人嚢底払 8,631,770 皇風大意 弘安2年 1279年 4,989,658 1,994,828 2,994,830 高祖遺文録 4,994,828 高祖遺文録 弘安3年 1280年 4,989,658 1,994,828 2,994,830 高祖遺文録 弘安4年 1281年 4,589,659 高祖遺文録 4,994,828 高祖遺文録 4,589,658 高祖遺文録 弘安年間 1278-1287年 4,994,828 1,994,828 2,994,830 類聚名物考 鎌倉時代? 4,861,659 1,924,828 2,936,831 日本略記 大永8年 1528年 4,918,652 権少僧都俊貞雑記集(『栗里先生雑著』引用) 永禄5年 1562年 4,994,800 1,994,828 2,994,830 香取文書
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