庚寅年籍
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681年(天武10)に飛鳥浄御原令の編纂が開始され、689年(持統3)になってようやく飛鳥浄御原令ができあがった。その戸令(こりょう)に基づいて690年(持統4)に全国的な戸籍の庚寅年籍が作成された。人民を地域により編成するという作業はほぼ完了し、692年(持統2)には、庚寅年籍に基づく口分田の班給が、畿内で開始された。同時に全国でも班田収授法が施行されたと推測される。令に則った戸籍を介して個別に人身を把握して、個別人身支配が始まったのである。 この時代の戸籍としては、702年に作成された半布里戸籍が現存している。 『続日本紀』宝亀10年(779年)6月13日条に「庚午の年より、大宝二年(702年)に至る四比の藉」とあることからも、この年籍以降、六年ごとの造籍がなされるようになったと考えられる。同戸籍は、その後の六年に一度作成するという「六年一造」の造籍の出発点になっただけでなく、五十戸一里を基準に行政的に戸を編成して、その戸内の家族(戸口)の名、年齢、戸主との続柄などを詳述したことによって、個々の家族構成を直接的に把握することを可能にし、それを基に班田収授を行い、人頭課税をする台帳の機能も果たした。また、良賤身分を定める原簿の機能を付随するようになったようである。 庚寅年籍は現存しないが、2012年、大宰府から、次の戸籍(696年)を作成するための、庚寅年籍以降の異動を記した木簡が出土した。正倉院文書(紙背文書)に含まれる最古の戸籍は702年(大宝2年)のものである(正倉院から流出した文書もある)。当時の家族形態などを具体的に知ることが出来る。
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