郷里制と戸籍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/24 16:08 UTC 版)
「下総国葛飾郡大嶋郷戸籍」の記事における「郷里制と戸籍」の解説
詳細は「古代日本の地方官制」および「古代日本の戸籍制度」を参照 律令国家では大化改新以降、著名な690年(持統天皇4年)の庚寅年籍などにおいて、50戸を単位として「里」を設け、里ごとに戸籍を作成してきたが、715年(霊亀元年)に郷里制を施行して、それまでの里を郷と称して、郷を約3つの里に区分した。そして従来の里長(郷長)に加えて里正を置いて行政の末端を強化し、班田収受や課役徴収を効率的に行える体制を整えた。 この改正は戸の編成についても行われた。郷を構成する戸を郷戸、一郷戸のなかに二、三の小家族集団を地方行政組織の最末端組織の単位として公認し、房戸とした。郷戸数は令の規定によって五十戸を厳守したが、房戸数については定数がなく、郷と里に戸の定数を設けた中国唐の郷里(きょうり)制とは内容を異にしている。 しかし郷里制は里を機械的に設定したもので、自然村落を無視した制度であったため、結局、期待したほどの成果を行政上あげることができず、政府は739年(天平11年)5月から7月ごろにかけて出した一連の地方政治簡素化政策の一環として廃止を決定し、その年の末から翌年6月ごろまでの間に、里と房戸を廃止して郷の組織だけを残す郷制に切り換えた。 この戸籍によると大嶋郷は130房戸・1191人(甲和里は44房戸・454人、仲村里は44房戸・367人、嶋俣里は42房戸・370人)で、1房戸あたりの平均人数は9.1人だった計算になる。
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