5月から7月
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/12 15:35 UTC 版)
「オンタリオ湖での戦闘」の記事における「5月から7月」の解説
1813年から1814年に掛けての冬、アメリカ軍は造船技師のノア・ブラウンと造船工数人および資材をシャンプレーン湖に派遣し、戦隊を建造できるようにした。これが後のプラッツバーグの戦いで大勝する要因になった。キングストンでは、以前にヨーと共に勤務していたリチャード・オコーナー大佐が、1813年5月の着任以来造船所の監督にあたり、施設を大きく拡張していた。 ヨーは、1813年の自戦隊の武装がチョウンシー戦隊より劣っていたので、HMSプリンス・リージェントとHNSプリンセス・シャーロットという2隻の大きなフリゲート艦の建造を命じた。氷が溶けてから間もなくこの2艦の準備ができ、ヨー戦隊は優位に立っていた。5月6日、ニューヨーク海軍造船所からサケッツ港への供給線を妨害するためにオスウィーゴ砦への襲撃を行った(オスウィーゴ砦の戦い)。この襲撃は一部成功し、イギリス軍はスクーナーのグロウラーを含め非武装船数隻を捕獲した。グロウラーの所有者が変わったのは3回目だった。 このときのヨーの主目的は、チョウンシー戦隊の新しいフリゲート艦や重ブリッグ艦に装備する重砲を捕獲することだったが、グロウラーと共に7門の大砲を捕獲したものの、アメリカ軍の大砲の大半はまだオスウィーゴに到着して居らず、オスウィーゴ川の上流12マイル (35 km) にあった。ヨーとゴードン・ドラモンド中将の陸軍はこれらを捕獲しようとはしなかった。その代わりに、それらがサケッツ港まで届けられないよう湖上の封鎖を行った。その数週間後、アメリカ軍のウールジー中尉が大砲、ケーブルなどの物資を積んだ船を出して、サケッツ港にいるチョウンシーの新艦に届けようとしたが、基地の数マイル南にあるクリークに追い込まれた。スティーブン・ポパム海軍大佐の指揮する海兵と水兵の部隊がこのクリークに入ってアメリカ軍のボートを「切り取ろう」としたが、5月30日に起きたビッグサンディクリークの戦いで急襲され、殺されるか捕虜になった。 それから間もなくチョウンシーは大砲を受け取り、USSスペリオルとUSSモホークというヨー戦隊のものより大きな2隻のフリゲート艦を完成させ、さらに重装備ブリッグ・スループジョーンズとジェファーソンも完成させた。しかし、この戦隊の準備が整ったのは7月半ばになってからであり、チョウンシーが病気になり、副司令官のジェイコブ・ジョーンズ海軍大佐に指揮を預けることを拒んだので、出撃したのは7月末になってからだった。このことで陸軍のジェイコブ・ブラウン少将の作戦を著しく遅らせ、計画していたキングストン攻撃を諦め、ナイアガラ川上流を越えた攻撃を行うことになった。アメリカ戦隊がやっと湖上に姿を現したとき、ヨーは直ぐにキングストンに引き返した。この年はこういうことが繰り返された。艦船や大砲で劣勢になった戦隊が港に留まり、さらに強力なものを建造するというパターンだった。
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