飛鳥浄御原令
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飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)は、日本の飛鳥時代後期に制定された体系的な法典。令22巻。律令のうち令のみが制定・施行されたものである。日本史上、最初の体系的な律令法と考えられているが、現存しておらず、詳細は不明な部分が多い。
- ^ 律の条文をバラバラに摂取するだけでは律法典の編纂は不可能であり、唐律全体の伝来とそれを日本の国情に合わせられる人材がいなければ、律の制定は不可能であったとする指摘がある(榎本淳一「〈東アジア世界〉における日本律令制」大津透 編『律令制研究入門』(名著刊行会、2011年)所収)。
- 1 飛鳥浄御原令とは
- 2 飛鳥浄御原令の概要
- 3 関連項目
飛鳥浄御原令
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詳細は「飛鳥浄御原令」を参照 天智天皇の死後、壬申の乱により政権を奪取した天武天皇は、軍事を政治の最優先項目に置き、専制的な政治を推進していった。主要な政治ポストには従来の豪族ではなく諸皇子をあてて、その下で働く官僚たちの登用・考課・選叙など官人統制に関する法令を整備していった。こうした流れは、体系的な律令法典の制定へと帰着することになり、681年に天武天皇は律令制定を命ずる詔を発出した。天武天皇の生前に律令は完成しなかったが、689年の持統天皇の時代に令が完成・施行された。これが飛鳥浄御原令である。この令は、律令制の本格施行ではなく先駆的に施行したものと考えられている。令原文が現存していないので、詳細は判明していないが、戸籍を6年に1回作成すること(六年一造)、50戸を1里とする地方制度、班田収授に関する規定など、律令制の骨格がこの令により形成されたと考えられている。また、現在判明している範囲では浄御原令の官制などの制度は、南北朝時代や隋の中国の制度や百済・新羅などの朝鮮半島の制度が織り交ぜられたものと考えられている。 律は制定されなかった。その理由としては、高度な体系性を必要とし、また隋律あるいは唐律はまだ日本へ伝来せず準備不足だったと考えられている。 日本で律が編纂されるようになるには、唐との関係改善によって唐からの律法典が招来され、それを理解して日本の国情に合わせて改編できる人材の確保(唐留学生の帰国や唐人の来日)を待たねばならなかったと推定されている。
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