唐との関係とは? わかりやすく解説

唐との関係

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/06/14 14:35 UTC 版)

大仁秀」の記事における「唐との関係」の解説

宣王即位後唐対し臣下の礼を取り礼を欠かすことがなかった。これに対し唐側でも渤海入朝を非常に歓迎し穆宗文宗などは親しく渤海使引見し、麟徳殿での宴を賜った記録残されている。それ以外にも「渤海王子に官を加うるの制」などの勅書残されており、唐と渤海親密な関係を現在に伝えている。 事実王族の中から大公則をはじめ入朝させ、居正高寿海・承朝などの留学生派遣し唐の文物制度導入した渤海大い発展した

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唐との関係

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 15:19 UTC 版)

渤海 (国)」の記事における「唐との関係」の解説

大祚栄震国建国した当初は、武則天夷狄から収奪する方策を執っていたため唐と対立していた。そのため当初突厥新羅との通好による唐の牽制外交方針基本にしていたが、唐の中宗即位すると、張行芨を派遣・招慰し両国の関係改善転機もたらした大祚栄もこの招慰を受け入れ王子を唐に入侍させ、唐に従属する政治的地位確認した713年には唐は大祚栄を「左驍衛員外大将軍渤海郡王」に封じ同時に渤海羈縻体制下に入る、その後は「渤海国王」と「渤海郡王」と冊封の官称に変化はあったが、原則として唐の滅亡までこの関係は維持された。 招慰を受けた渤海は質子の制度に基づき子弟を唐に遣している。大祚栄嫡子であった大門芸派遣されたのが初見であるが、渤海からの質子は単なる人質としてではなく皇帝謁見賜宴を受け、時には皇太子加冠や謁陵、時節朝儀などに列席するなどの待遇を受け、また唐にて客死した場合位階追贈物品下賜を受けるなどの良好な待遇受けている。これは渤海との関係が良好であったためと考えられるこの他渤海は唐の藩属として定期的に方物を献上し朝貢行っていた。朝貢の際には「土貢」を献上する同時に国内状況奏上していた。この他元旦や各節句に「賀正使」と献礼の使節派遣した。これらの使節はほぼ毎年派遣記録残されており、また1年に2~3度使節派遣行っていることが知られており、渤海自治政権確立する同時に羈縻体制下での外交関係継続していた。 渤海は、唐文化移入努め遣唐使派遣するとともに留学生送り、唐の学問を学ばせており、国内でも唐の官制模した三官六省組織作り上げ律令体制導入している。一方、唐とは異なる独自の年号使用するなど、唐と一定の距離を置く側面見られる。 なお唐滅亡後は、渤海中原王朝との外交関係継続している。

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