唐との関係
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宣王は即位後唐に対し臣下の礼を取り、蕃礼を欠かすことがなかった。これに対し唐側でも渤海の入朝を非常に歓迎し、穆宗や文宗などは親しく渤海使と引見し、麟徳殿での宴を賜った記録が残されている。それ以外にも「渤海王子に官を加うるの制」などの勅書が残されており、唐と渤海の親密な関係を現在に伝えている。 事実王族の中から大公則をはじめ入朝させ、李居正・高寿海・朱承朝などの留学生を派遣し唐の文物制度を導入した渤海は大いに発展した。
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唐との関係
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大祚栄が震国を建国した当初は、武則天が夷狄から収奪する方策を執っていたため唐と対立していた。そのため当初は突厥や新羅との通好による唐の牽制を外交方針の基本にしていたが、唐の中宗が即位すると、張行芨を派遣・招慰し両国の関係改善の転機をもたらした。大祚栄もこの招慰を受け入れ、王子を唐に入侍させ、唐に従属する政治的地位を確認した。713年には唐は大祚栄を「左驍衛員外大将軍渤海郡王」に封じ、同時に渤海は羈縻体制下に入る、その後は「渤海国王」と「渤海郡王」と冊封の官称に変化はあったが、原則として唐の滅亡までこの関係は維持された。 招慰を受けた渤海は質子の制度に基づき、子弟を唐に遣している。大祚栄の嫡子であった大門芸が派遣されたのが初見であるが、渤海からの質子は単なる人質としてではなく、皇帝の謁見、賜宴を受け、時には皇太子の加冠や謁陵、時節の朝儀などに列席するなどの待遇を受け、また唐にて客死した場合は位階の追贈や物品の下賜を受けるなどの良好な待遇を受けている。これは渤海との関係が良好であったためと考えられる。 この他渤海は唐の藩属として定期的に方物を献上し朝貢を行っていた。朝貢の際には「土貢」を献上すると同時に国内状況を奏上していた。この他、元旦や各節句に「賀正使」と献礼の使節を派遣した。これらの使節はほぼ毎年の派遣が記録に残されており、また1年に2~3度も使節派遣を行っていることが知られており、渤海は自治政権を確立すると同時に、羈縻体制下での外交関係を継続していた。 渤海は、唐文化の移入に努め、遣唐使を派遣するとともに留学生を送り、唐の学問を学ばせており、国内でも唐の官制を模した三官六省の組織を作り上げ、律令体制を導入している。一方、唐とは異なる独自の年号を使用するなど、唐と一定の距離を置く側面も見られる。 なお唐滅亡後は、渤海は中原王朝との外交関係を継続している。
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