唐とアッバース朝との接触
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「唐朝におけるイスラーム」の記事における「唐とアッバース朝との接触」の解説
詳細は「タラス河畔の戦い」および「安史の乱」を参照 ムハンマドが死去した後、イスラームの勢力圏は拡大し、元々は唐に属していたアムールやシルの各部族にまで勢力が及んだ。750年(天宝9年)、唐の将軍である高仙芝は、タシュケント(石国)の王が藩臣の礼をなさなかったことを口実にタシュケントを攻撃した。王は殺害され、タシュケント王子はアッバース朝に救援を要請した。アッバース朝は唐へ向けて軍勢を進め、それに対して高仙芝は3万の兵を従えてタラス城に至った。唐の軍勢とアッバース朝の軍勢は5日間にらみ合ったが、唐の一部の軍勢がアッバース朝に寝返り、高仙芝はアッバース朝と離反兵と挟み撃ちにされて大敗した。アッバース朝のこの勝利は中央アジアのイスラーム化につながったが、アッバース朝が中国内地に進出することはなかった。 その後、唐とアッバース朝は妥協し互いに使節を送りあった。756年、節度使の安禄山が反乱を起こした。この安史の乱では、唐がアッバース朝に援軍を乞い、アッバース朝からは1,000人余りの兵が派遣された。これらの兵は乱が鎮圧された後も帰国せず、長安近辺の地域を居留地として与えられてそこに定住した。また、乱の最中、首都長安では4,000人以上のムスリムが身動きが取れなくなったという。安史の乱に乗じて吐蕃が唐の西方を占領したことで唐と西域との交通が断たれることとなった。
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