唐とアッバース朝との接触とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 唐とアッバース朝との接触の意味・解説 

唐とアッバース朝との接触

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/02 21:15 UTC 版)

唐朝におけるイスラーム」の記事における「唐とアッバース朝との接触」の解説

詳細は「タラス河畔の戦い」および「安史の乱」を参照 ムハンマド死去した後、イスラーム勢力圏拡大し、元々は唐に属していたアムールシル各部族にまで勢力及んだ750年天宝9年)、唐の将軍である高仙芝は、タシュケント石国)の王が藩臣の礼をなさなかったことを口実タシュケント攻撃した。王は殺害されタシュケント王子アッバース朝救援要請したアッバース朝は唐へ向けて軍勢進め、それに対して高仙芝は3の兵を従えてタラス城に至った。唐の軍勢アッバース朝軍勢5日間にらみ合ったが、唐の一部軍勢アッバース朝寝返り高仙芝アッバース朝離反兵と挟み撃ちにされて大敗したアッバース朝のこの勝利中央アジアイスラーム化つながったが、アッバース朝中国内地進出することはなかった。 その後、唐とアッバース朝妥協し互いに使節送りあった。756年節度使安禄山反乱起こした。この安史の乱では、唐がアッバース朝援軍乞いアッバース朝からは1,000余りの兵が派遣された。これらの兵は乱が鎮圧された後も帰国せず、長安近辺地域居留地として与えられてそこに定住したまた、乱の最中首都長安では4,000人以上のムスリム身動き取れなくなったという。安史の乱乗じて吐蕃が唐の西方占領したことで唐と西域との交通断たれることとなった

※この「唐とアッバース朝との接触」の解説は、「唐朝におけるイスラーム」の解説の一部です。
「唐とアッバース朝との接触」を含む「唐朝におけるイスラーム」の記事については、「唐朝におけるイスラーム」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「唐とアッバース朝との接触」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「唐とアッバース朝との接触」の関連用語

1
12% |||||

唐とアッバース朝との接触のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



唐とアッバース朝との接触のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの唐朝におけるイスラーム (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS