唐による半島支配と新羅による統一
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「百済」の記事における「唐による半島支配と新羅による統一」の解説
唐は高句麗の都があった平壌に安東都護府を設置して朝鮮半島支配を目指し、百済の故地に熊津都督府をはじめとする5つの都督府を設置して熊津都督に全体の統轄を命じた。664年には劉仁軌の上表を受けて義慈王の太子だった扶余隆を熊津都督に任じ、翌年の665年8月には唐は就利山において扶余隆と新羅の文武王に劉仁起の立会の下に熊津都督府支配地域(旧百済)と新羅の国境画定の会盟を行わせた。後に扶余隆は百済の歴代国王が唐から与えられていた「帯方郡王」に任じられ、子孫に称号が継承されている。これは百済の亡国の太子が唐によって新羅王と同格と扱われたことを示すとともに、高句麗最後の王・宝蔵王の遼東都督任命と対比することができる。そのため、扶余隆の熊津都督任命が単に百済遺民の慰撫を目的としているだけではなく、百済や高句麗(安東都護府・遼東郡王)を滅亡前の冊封国ではなく羈縻州として組み込み、さらに残された新羅(鶏林州都督府・楽浪郡王)を羈縻体制に組み入れる「朝鮮半島全域の中華帝国への編入」を視野に入れたもので、後年実行に移されている。 唐の支配に反発した新羅は、建前上は唐の臣下という立ち位置を維持しつつ、「百済と新羅は共に唐の領土なのであり、そこに国境はない」という論理の下、百済・高句麗の遺民を蜂起させつつ領土を蚕食する一方で、唐へは謝罪使を派遣するという方法で支配地を広げた。唐側では繰り返される新羅の領土拡張と謝罪使に対し、新羅王の王位剥奪の問題にまで発展したのもの、西方で国力をつけた吐蕃の侵入で都長安までもが危険に曝される状態となり、遠方に位置する朝鮮半島を維持できなくなり、最終的に百済の故地は新羅の支配下に入った。 百済滅亡の後、多くの百済の高官たちが新羅に降った。660年に行われた論功行賞では佐平の忠常、常永、達率の自簡などの百済遺臣に新羅の地位が与えられている。白村江の戦いの後には、多数の百済人が倭国へ亡命した。百済王子豊璋の弟・善光(または禅広)の子孫は倭国の朝廷から百済王(くだらのこにきし)の姓を賜り、日本の氏族としての百済王氏を中心として倭国に根付いていった。白村江で敗れた豊璋を始め、高句麗へも有力者が逃れた事が『日本書紀』や『旧唐書』に残る。豊璋は高句麗の滅亡後に唐に捕縛され、流刑に処されたと見られる。最終的に唐へと渡った百済王族、貴族もいたことが西安や洛陽で発見された入唐百済人の墓によって明らかとなっている。百済王子扶余隆や、百済の武将黒歯常之、祢軍など6人の百済人とその子孫たちの墓が2016年現在、合わせて10か所発見されている。彼らは唐に仕え、3世代にわたりその動向が墓誌に残されていた。
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