唐による半島支配と新羅による統一とは? わかりやすく解説

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唐による半島支配と新羅による統一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 12:35 UTC 版)

百済」の記事における「唐による半島支配と新羅による統一」の解説

唐は高句麗の都があった平壌安東都護府設置して朝鮮半島支配目指し百済故地熊津都督府はじめとする5つ都督府設置して熊津都督全体統轄命じた664年には劉仁軌の上表を受けて義慈王太子だった扶余隆熊津都督任じ翌年665年8月には唐は就利山において扶余隆新羅文武王に劉仁起の立会の下に熊津都督府支配地域(旧百済)と新羅国境画定会盟を行わせた。後に扶余隆百済歴代国王が唐から与えられていた「帯方郡王」に任じられ子孫称号継承されている。これは百済亡国太子が唐によって新羅王同格扱われたことを示すとともに高句麗最後の王宝蔵王遼東都督任命対比することができる。そのため、扶余隆熊津都督任命が単に百済遺民慰撫目的としているだけではなく百済高句麗安東都護府遼東郡王)を滅亡前の冊封国ではなく羈縻州として組み込み、さらに残され新羅鶏林州都督府楽浪郡王)を羈縻体制組み入れる朝鮮半島全域中華帝国への編入」を視野入れたもので、後年実行移されている。 唐の支配反発した新羅は、建前上は唐の臣下という立ち位置維持しつつ、「百済新羅は共に唐の領土なのであり、そこに国境はない」という論理の下、百済高句麗遺民蜂起させつつ領土蚕食する一方で、唐へは謝罪使を派遣するという方法支配地を広げた。唐側では繰り返される新羅領土拡張謝罪使に対し新羅王王位剥奪問題にまで発展したのもの、西方国力をつけた吐蕃侵入で都長安までもが危険に曝される態となり、遠方位置する朝鮮半島維持できなくなり最終的に百済故地新羅支配下入った百済滅亡の後、多く百済高官たちが新羅降った660年行われた論功行賞では佐平の忠常、常永、達率の自簡などの百済遺臣新羅地位与えられている。白村江の戦いの後には、多数百済人倭国亡命した百済王豊璋の弟・善光(または禅広)の子孫は倭国朝廷から百済王くだらのこにきし)の姓を賜り日本氏族としての百済王氏中心として倭国根付いていった。白村江敗れた豊璋始め高句麗へも有力者逃れた事が『日本書紀』『旧唐書』に残る。豊璋高句麗の滅亡後に唐に捕縛され流刑処されと見られる最終的に唐へと渡った百済王族貴族もいたことが西安洛陽発見され入唐百済人の墓によって明らかとなっている。百済王扶余隆や、百済武将黒歯常之祢軍など6人の百済人その子孫たちの墓が2016年現在合わせて10か所発見されている。彼らは唐に仕え3世代にわたりその動向墓誌残されていた。

※この「唐による半島支配と新羅による統一」の解説は、「百済」の解説の一部です。
「唐による半島支配と新羅による統一」を含む「百済」の記事については、「百済」の概要を参照ください。

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