百済滅亡
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「百済・唐戦争(英語版)」を参照 660年3月、新羅からの救援要請を受けて唐は軍を起こし、蘇定方を神丘道行軍大総管に任命し、劉伯英将軍に水陸13万の軍を率いさせ、新羅にも従軍を命じた。唐軍は水上から、新羅は陸上から攻撃する水陸二方面作戦によって進軍した。唐13万・新羅5万の合計18万の大軍であった。 百済王を諌めて獄死した佐平の成忠は唐軍の侵攻を予見し、陸では炭峴(現大田広域市西の峠)、海では白江の防衛を進言していたが、王はこれを顧みなかった。また古馬弥知(こまみち)県に流されていた佐平の興首(こうしゅ)も同様の作戦を進言していたが、王や官僚はこれを流罪にされた恨みで誤った作戦を進言したとして、唐軍が炭峴と白江を通過したのちに迎撃すべきと進言した。百済の作戦が定まらぬうちに、唐軍はすでに炭峴と白江を超えて侵入していた。 黄山の戦い 百済の大本営は機能していなかったが、百済の将軍たちは奮闘し、階伯将軍の決死隊5000兵が3つの陣を構えて待ちぶせた。新羅側は太子金法敏(後の文武王)・金欽純(きん きんじゅん)将軍・金品日(きん ひんじつ)将軍らが兵5万を3つにわけて黄山を突破しようとしたが、百済軍にはばまれた。7月9日の激戦黄山の戦いで階伯ら百済軍は新羅軍をはばみ四戦を勝ったが、敵の圧倒的な兵力を前に戦死した。この黄山の戦いで新羅軍にも多大な損害を受け、唐との合流の約束期日であった7月10日に遅れたところ、唐の蘇定方はこれを咎め新羅の金文穎を斬ろうとしたが、金は黄山の戦いを見ずに咎を受けるのであれば唐と戦うと言い放ち斬られそうになったが、蘇定方の部下が取り成し罪を許された。 唐軍は白江を越え、ぬかるみがひどく手間取ったが、柳の筵を敷いて上陸し、熊津口の防衛線を破り王都に迫った。義慈王は佐平の成忠らの進言を聞かなかったことを後悔した。 7月12日、唐軍は王都を包囲。百済王族の投降希望者が多数でたが、唐側はこれを拒否。7月13日、義慈王は熊津城に逃亡、太子隆が降伏し、7月18日に義慈王が降伏し、百済は滅亡した。 660年(斉明天皇6年)8月、百済滅亡後、唐は百済の旧領を羈縻支配の下に置いた。唐は劉仁願将軍に王都泗沘城を守備させ、王文度(おう ぶんたく)を熊津都督として派遣した(熊津都督府)。唐はまた戦勝記念碑である「大唐平百済国碑銘(だいとうへいくだらこくひめい)」を建て、そこでも戦前の百済の退廃について「外には直臣を棄て、内には妖婦を信じ、刑罰の及ぶところただ忠良にあり」と彫られた。大唐平百済国碑銘は、現在も扶餘郡の定林寺の五重石塔に残っている。
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百済滅亡
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642年は最終的に676年の新羅による朝鮮半島統一に帰着する東アジアの大変動が始まる画期となった。この年、前年に即位した百済の義慈王が自ら兵を率いて新羅に侵攻し、40余りの城を陥落させて新羅に大打撃を与える事に成功した。この時落城したのは主に伽耶地方の城であったことが『三国史記』「新羅本紀」にあり、百済は長年追求してきた伽耶地方の奪取を達成することができた。この時百済は後に新羅王となる金春秋の娘婿とその子供らを全員殺害し、精神的にも新羅に大きな打撃を与えた。 翌643年には高句麗と和睦し、かつて高句麗との争奪戦の中で新羅に掠め取られた漢城の奪回を目指した。義慈王は国内でも専制的な体制の構築を目指し、独裁権の強化と反対派の粛清を進めたと見られることが記録から読み取れる。同じ642年には高句麗でも淵蓋蘇文がクーデターにより実権を握り、新羅でもやはり同じ年、善徳女王を中心として金春秋、金庾信の3名の結束による権力体制が成立した。倭国では舒明天皇が死に皇極天皇が即位するとともに蘇我蝦夷・蘇我入鹿親子が実権を握り、「陵(みささぎ)」と称する墓の建設を開始している。こうして642年頃を境に各国で権力の集中が進んだ。 百済は高句麗と協同して新羅への侵攻を続け、善徳女王、そしてその死後に新羅王となった金春秋(武烈王)は唐への援軍要請を繰り返した。これを受けた唐は、高句麗征討においてその同盟国となっていた百済を倒し、高句麗の背後を抑える意図もあり、遂に660年に水陸合わせ13万とされる大軍を百済へ向けて差し向けた。呼応した新羅も金庾信の指揮の下出兵した。660年3月、唐の蘇定方将軍の軍が山東半島から海を渡って百済に上陸し、百済侵攻を開始した。百済側は対応を巡って方針がまとまらず、有効な戦略を打ち立てることはできなかった。個別の戦闘では奮闘した例もあったものの、7月には王都泗沘が占領され、義慈王は熊津に逃れたが間もなく降伏した。こうして百済は滅亡した。
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