百済滅亡とは? わかりやすく解説

百済滅亡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 06:08 UTC 版)

白村江の戦い」の記事における「百済滅亡」の解説

百済・唐戦争英語版)」を参照 660年3月新羅からの救援要請受けて唐は軍を起こし蘇定方神丘道行軍大総管任命し劉伯将軍水陸13の軍を率いさせ、新羅にも従軍命じた唐軍水上から、新羅陸上から攻撃する水陸二方作戦によって進軍した。唐13新羅5万合計18大軍であった百済王諌めて獄死した佐平の成忠は唐軍侵攻予見し、陸では炭峴(現大田広域市西の峠)、海では白江の防衛進言していたが、王はこれを顧みなかった。また古馬弥知(こまみち)県に流されていた佐平の興首(こうしゅ)も同様の作戦進言していたが、王や官僚はこれを流罪にされた恨み誤った作戦進言したとして、唐軍が炭峴と白江を通過したのちに迎撃すべきと進言した。百済作戦定まらぬうちに、唐軍はすでに炭峴と白江を超えて侵入していた。 黄山戦い 百済大本営機能していなかったが、百済将軍たちは奮闘し階伯将軍決死隊5000兵が3つの陣を構えて待ちぶせた。新羅側は太子金法敏(後の文武王)・金欽純(きん きんじゅん)将軍金品日(きん ひんじつ)将軍らが兵5万3つにわけて黄山突破しようとしたが、百済軍にはばまれた。7月9日激戦黄山戦いで階伯百済軍は新羅軍をはばみ四戦を勝ったが、敵の圧倒的な兵力前に戦死した。この黄山戦いで新羅軍にも多大な損害を受け、唐との合流約束期日であった7月10日遅れたところ、唐の蘇定方はこれを咎め新羅金文穎を斬ろうとしたが、金は黄山戦い見ずに咎を受けるのであれば唐と戦うと言い放ち斬られそうになったが、蘇定方部下取り成し罪を許された。 唐軍は白江を越えぬかるみがひどく手間取ったが、の筵を敷いて上陸し熊津口の防衛線を破り王都迫った義慈王佐平の成忠らの進言を聞かなかったことを後悔した7月12日唐軍王都包囲百済王族投降希望者が多数でたが、唐側はこれを拒否7月13日義慈王熊津城に逃亡太子隆が降伏し7月18日義慈王降伏し百済滅亡した660年斉明天皇6年8月、百済滅亡後、唐は百済旧領羈縻支配の下に置いた。唐は劉仁願将軍王都泗沘城を守備させ、王文度(おう ぶんたく)を熊津都督として派遣した熊津都督府)。唐はまた戦勝記念碑である「大唐百済国碑銘だいとうへいくだらこくひめい)」を建て、そこでも戦前百済退廃について「外には直臣棄て、内には妖婦信じ刑罰の及ぶところただ忠良にあり」と彫られた。大唐百済国碑銘は、現在も扶餘郡定林寺五重石塔残っている。

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百済滅亡

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百済」の記事における「百済滅亡」の解説

642年最終的に676年新羅による朝鮮半島統一帰着する東アジア大変動が始まる画期となったこの年前年即位した百済義慈王が自ら兵を率いて新羅侵攻し40余りの城を陥落させて新羅大打撃与える事に成功した。この時落城したのは主に伽耶地方の城であったことが『三国史記』「新羅本紀」にあり、百済長年追求してきた伽耶地方奪取達成することができた。この時百済は後に新羅王となる金春秋娘婿その子供らを全員殺害し精神的に新羅大きな打撃与えた。 翌643年には高句麗和睦し、かつて高句麗との争奪戦の中で新羅掠め取られ漢城奪回目指した。義慈王国内でも専制的な体制構築目指し独裁強化反対派の粛清進めたと見られることが記録から読み取れる。同じ642年には高句麗でも淵蓋蘇文クーデターにより実権握り新羅でもやはり同じ年、善徳女王中心として金春秋金庾信の3名の結束による権力体制成立した倭国では舒明天皇死に皇極天皇即位するとともに蘇我蝦夷蘇我入鹿親子実権握り、「陵(みささぎ)」と称する墓の建設開始している。こうして642年頃を境に各国権力集中進んだ百済高句麗協同して新羅への侵攻続け善徳女王、そしてその死後新羅王となった金春秋武烈王)は唐への援軍要請繰り返した。これを受けた唐は、高句麗征討においてその同盟国となっていた百済倒し高句麗背後抑える意図もあり、遂に660年水陸合わせ13万とされる大軍百済向けて差し向けた呼応した新羅金庾信指揮下出兵した。660年3月、唐の蘇定方将軍の軍が山東半島から海を渡って百済上陸し百済侵攻開始した百済側は対応を巡って方針まとまらず有効な戦略打ち立てることはできなかった。個別戦闘では奮闘した例もあったものの、7月には王都泗沘占領され義慈王熊津逃れた間もなく降伏した。こうして百済滅亡した

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