百済復興運動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 06:08 UTC 版)
唐の目標は高句麗征伐であり、百済討伐はその障害要因を除去する意味があり、唐軍の主力は高句麗に向かうと、百済遺民鬼室福信・黒歯常之らによる百済復興運動が起きた。8月2日には百済残党が小規模の反撃を開始し、8月26日には新羅軍から任存(にんぞん。現在の忠南礼山郡大興面)を防衛した。9月3日に劉仁願将軍が泗沘城に駐屯するが、百済残党が侵入を繰り返した。百済残党は撃退されるが、泗沘の南の山に4,5個の柵をつくり、駐屯し、侵入を繰り返した。こうした百済遺民に呼応して20余城が百済復興運動に応じた。熊津都督王文度も着任後に急死している。 唐軍本隊は高句麗に向かっていたため救援できずに、新羅軍が百済残党の掃討を行う。10月9日に、ニレ城を攻撃、18日には攻略すると、百済の20余城は降伏した。10月30日には泗沘の南の山の百済駐屯軍を殲滅し、1500人を斬首した。 しかし、百済遺臣の西武恩卒鬼室福信・黒歯常之・僧道琛らの任存城や、達率余自信の周留城などが抵抗拠点であった。
※この「百済復興運動」の解説は、「白村江の戦い」の解説の一部です。
「百済復興運動」を含む「白村江の戦い」の記事については、「白村江の戦い」の概要を参照ください。
百済復興運動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 12:35 UTC 版)
「白村江の戦い」を参照 唐軍の主力が旧百済領を離れると鬼室福信や黒歯常之、僧道琛などの百済遺臣が反乱をおこした。また百済滅亡を知った倭国でも、朝鮮半島からの文物の導入ルートの途絶の懸念や、百済への勢力拡張などの目論見から、百済復興を全面的に支援することを決定し、倭国に人質として滞在していた百済王子・扶余豊璋を急遽帰国させるとともに阿倍比羅夫らからなる救援軍を派遣し、斉明天皇は筑紫国朝倉橘広庭宮に遷った。 帰国した豊璋は百済王に推戴されたが、実権を握る鬼室福信と対立し、遂にこれを殺害するという内紛が起きた。倭国は最終的には過去最大規模の軍勢を朝鮮半島へ派兵した。やがて唐本国から劉仁軌の率いる唐の増援軍が到着し、663年倭国の水軍と白村江(白馬江)で決戦に及んだ(白村江の戦い)。これに大敗した倭国は、各地を転戦する軍を集結させると、亡命を希望する百済貴族を伴って帰国させ、豊璋は密かに高句麗に逃れた。しかし、高句麗もまた668年に唐の軍門に降った。こうして百済は完全に滅亡した。
※この「百済復興運動」の解説は、「百済」の解説の一部です。
「百済復興運動」を含む「百済」の記事については、「百済」の概要を参照ください。
- 百済復興運動のページへのリンク