高句麗征伐
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342年10月、慕容翰が慕容皝へ「宇文部は強盛を誇り、度々我が国へ害を為しております。宇文逸豆帰は宇文乞得亀から大人の座を簒奪し、国民は彼に懐いておりません。また、彼自身の素質も凡庸で将帥の器ではありません。国に防備は無く、軍には規律がありません。臣はしばらくあの国におりましたから、その地形は知り尽くしております。彼等は、羯族の強国(後趙)と友好関係にありますが、かの国とは遠く離れておりますので助けには成らないでしょう。今戦えば、百戦百勝は間違いありません。ただ、高句麗には注意が必要です。彼等は宇文部と連絡を密に保っています。宇文部が滅ぼされたら、次は我が身に災厄が降りかかると知っているのです。ですから、我等が宇文部へ攻め込めば、その隙を衝いて国へ侵攻して来ることでしょう。もしも少数の兵卒しか国内に残さなければ撃破されますし、守備を堅めすぎれば遠征の兵力が不足します。つまり、高句麗は心腹の病なのです。宇文部攻略の為には、それに先がけてまず高句麗を討つべきです。彼らの兵力を見ると、一度の攻勢で勝てます。この時、宇文部は守りを固めるだけで攻撃はしますまい。 既に高句麗を奪ってから、転進して宇文部を攻め取る。二国を平定すれば、東海は我が内海となります。国は富み兵は強くなり、後顧の憂いもなくなります。そうしてこそ、中原進出を図ることができるのです」と進言すると、慕容皝はこれに同意して高句麗討伐に乗り出した。 高句麗を攻撃するに当たって侵攻経路は二つあり、その一方は平坦で道幅も広い北道であり、もう一方は険阻な南道であった。群臣は誰もが北道を行くべきだと考えていたが、慕容翰は「敵も同様に考え、北道の警備を厳重にしているはず。南道は険阻で大軍を動かすには不向きですが、精鋭兵だけで南道から進撃すれば、敵の不意を衝くことができます。そうすれば、丸都(高句麗の本拠地)も容易く落とせます。そして、別働隊で北道を抑え万一の事態に備えるのです。その心腹を潰しておけば、四肢は何もできません」と進言すると、慕容皝はこの意見を採用した。 11月、慕容皝は自ら4万の兵を率いて南道を進み、先鋒を慕容翰と慕容覇(後の慕容垂)に委ねた。また、長史の王寓には一万五千を与え、別働隊として北道を進ませた。高句麗の故国原王は「皝軍は北路を進むであろう」と述べ、弟の高武へ5万の精鋭兵を与えて北道へ向かわせ、自身は残った弱兵を率いて南道へ出た。慕容翰は先行して故国原王の軍と交戦を繰り広げ、その間に後続の慕容皝本隊が到着した。左常侍鮮于亮は数騎を引き連れ、高句麗の陣へ突撃して大いに荒らし回り、慕容翰らはこれを見逃さずに総攻撃を掛け、高句麗軍を大敗させた。さらに勝ちに乗じて追撃を掛け、遂に丸都へ突入すると、高句麗王は単騎で逃亡した。前燕軍は男女五万人を捕虜とし、宮殿を焼き丸都を壊してから帰国した。
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高句麗征伐
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同年10月、建威将軍慕容翰は慕容皝へ「宇文部は強盛を誇り、度々我が国へ害を為しております。宇文逸豆帰は宇文乞得亀から大人の座を簒奪し、国民は彼に懐いておりません。また、彼自身の素質も凡庸で将帥の器ではありません。国に防備は無く、軍には規律がありません。臣はしばらくあの国におりましたから、その地形は知り尽くしております。彼等は、羯族の強国(後趙)と友好関係にありますが、かの国とは遠く離れておりますので助けには成らないでしょう。今戦えば、百戦百勝は間違いありません。ただ、高句麗には注意が必要です。彼等は宇文部と連絡を密に保っています。宇文部が滅ぼされたら、次は我が身に災厄が降りかかると知っているのです。ですから、我等が宇文部へ攻め込めば、その隙を衝いて国へ侵攻して来ることでしょう。もしも少数の兵卒しか国内に残さなければ撃破されますし、守備を堅めすぎれば遠征の兵力が不足します。つまり、高句麗は心腹の病なのです。宇文部攻略の為には、それに先がけてまず高句麗を討つべきです。彼らの兵力を見ると、一度の攻勢で勝てます。この時、宇文部は守りを固めるだけで攻撃はしますまい。 既に高句麗を奪ってから、転進して宇文部を攻め取る。二国を平定すれば、東海は我が内海となります。国は富み兵は強くなり、後顧の憂いもなくなります。そうしてこそ、中原進出を図ることができるのです」と進言すると、慕容皝はこれに同意して高句麗討伐に乗り出した。 高句麗を攻撃するに当たって侵攻経路は二つあり、その一方は平坦で道幅も広い北道であり、もう一方は険阻な南道であった。群臣は誰もが北道を行くべきだと考えていたが、慕容翰は「敵も同様に考え、北道の警備を厳重にしているはず。南道は険阻で大軍を動かすには不向きですが、精鋭兵だけで南道から進撃すれば、敵の不意を衝くことができます。そうすれば、丸都城(高句麗の本拠地。現在の吉林省通化市集安市の北西)も容易く落とせます。そして、別働隊で北道を抑え万一の事態に備えるのです。その心腹を潰しておけば、四肢は何もできません」と進言すると、慕容皝はこの意見を採用した。 11月、慕容皝は自ら四万の兵を率いて出陣し、南道を進み、慕容翰と平狄将軍慕容覇に先鋒を命じた。長史王寓には1万5千を与え、別働隊として北道を進ませた。故国原王は「皝軍は北路を進むであろう」と述べ、弟の高武へ5万の精鋭兵を与えて北道へ向かわせ、自身は残った弱兵を率いて南の狭道へ出た。慕容翰が先行して故国原王軍と木底において激突すると、その間に後続の慕容皝本隊が到着した。左常侍鮮于亮は数騎を引き連れて高句麗の陣を大いに乱すと、敵軍は大いに動揺した。慕容皝はこれに乗じて総攻撃を掛けて高句麗軍を大敗させ、左長史韓寿は敵将阿仏和度加を討ち取った。諸軍は勝ちに乗じて追撃を掛け、遂に丸都へ突入すると、故国原王は単騎で逃走した。軽車将軍慕輿泥は追撃を掛け、母の周氏と妻を捕らえてから帰還した。北道では王寓らはいずれも敗北を喫していたので、慕容皝はこれ以上の追撃はせず、使者を派遣して故国原王を招いた。だが、故国原王は応じなかったので慕容皝は退却しようとしたが、韓寿は進み出て「高句麗の地は守るに不向きです。今、その主が滅んで民は逃散し、山谷に潜伏しておりますが、我らの大軍が去れば必ずやその残党を纏め上げて勢力を取り戻し、再び患いを為すでしょう。そこで、父の屍と母を我が国へ持ち帰り、彼が自ら出頭するのを待ってこれを返還するのです。こうして恩信をもって慰撫するのが上策です」と勧めると、慕容皝はこれに従って故国原王の父の美川王の墓を暴いて屍を奪い、さらに母妻や府庫に代々保管されている珍宝を奪った。さらに男女5万人を捕虜とし、宮殿を焼き払って丸都を破壊してから帰還した。 343年2月、故国原王は弟を慕容皝の下へと派遣し、臣下となる事を約束して数千の貢物を献上した。これにより美川王の屍を返還したが、母の周氏は人質として留め置いた。
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