高句麗征伐とは? わかりやすく解説

高句麗征伐

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/14 04:33 UTC 版)

慕容翰」の記事における「高句麗征伐」の解説

342年10月慕容翰慕容皝へ「宇文部強盛誇り、度々我が国へ害を為しております宇文逸豆帰宇文乞得亀から大人の座を簒奪し、国民彼に懐いておりません。また、自身素質凡庸将帥の器ではありません。国に防備無く、軍には規律がありません。臣はしばらくあの国おりましたから、その地形知り尽くしております彼等は、羯族強国後趙)と友好関係ありますが、かの国とは遠く離れておりますので助けには成らないでしょう。今戦えば、百戦百勝間違いありません。ただ、高句麗には注意が必要です。彼等宇文部連絡密に保ってます。宇文部滅ぼされたら、次は我が身災厄降りかかる知っているのです。ですから、我等宇文部攻め込めば、その隙を衝いて国へ侵攻して来ることでしょう。もしも少数兵卒しか国内に残さなければ撃破されますし、守備堅めすぎれば遠征兵力不足します。つまり、高句麗心腹の病なのです宇文部攻略為には、それに先がけてまず高句麗を討つべきです。彼らの兵力を見ると、一度攻勢勝てます。この時、宇文部守り固めるだけで攻撃はしますまい。 既に高句麗奪ってから、転進し宇文部攻め取る。二国平定すれば、東海我が内海となります。国は富み兵は強くなり、後顧の憂いなくなります。そうしてこそ、中原進出を図ることができるのです」と進言すると、慕容皝はこれに同意して高句麗討伐乗り出した高句麗を攻撃するに当たって侵攻経路二つあり、その一方平坦道幅も広い北道であり、もう一方険阻な南道であった群臣誰もが北道を行くべきだと考えていたが、慕容翰は「敵も同様に考え北道警備厳重にしているはず。南道険阻大軍を動かすには不向きですが、精鋭兵だけで南道から進撃すれば、敵の不意を衝くことができますそうすれば、丸都(高句麗本拠地)も容易く落とせます。そして、別働隊北道抑え万一事態備えるのです。その心腹潰しておけば、四肢は何もできません」と進言すると、慕容皝はこの意見採用した11月慕容皝は自ら4の兵を率いて南道進み先鋒慕容翰慕容覇(後の慕容垂)に委ねたまた、長史の王寓には一万五千与え別働隊として北道を進ませた。高句麗故国原王は「皝軍は北路を進むであろう」と述べ、弟の高武へ5万精鋭兵を与えて北道へ向かわせ、自身残った弱兵率いて南道出た慕容翰先行して故国原王の軍と交戦繰り広げその間後続慕容皝本隊到着した。左常侍鮮于亮は数騎を引き連れ高句麗の陣へ突撃して大い荒らし回り慕容翰らはこれを見逃さず総攻撃掛け高句麗軍を大敗させた。さらに勝ちに乗じて追撃掛け遂に丸都へ突入すると、高句麗王単騎逃亡した前燕軍は男女五万人を捕虜とし、宮殿焼き丸都を壊してから帰国した

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高句麗征伐

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 20:48 UTC 版)

慕容皝」の記事における「高句麗征伐」の解説

同年10月、建威将軍慕容翰慕容皝へ「宇文部強盛誇り、度々我が国へ害を為しております宇文逸豆帰宇文乞得亀から大人の座を簒奪し、国民彼に懐いておりません。また、自身素質凡庸将帥の器ではありません。国に防備無く、軍には規律がありません。臣はしばらくあの国おりましたから、その地形知り尽くしております彼等は、羯族強国後趙)と友好関係ありますが、かの国とは遠く離れておりますので助けには成らないでしょう。今戦えば、百戦百勝間違いありません。ただ、高句麗には注意が必要です。彼等宇文部連絡密に保ってます。宇文部滅ぼされたら、次は我が身災厄降りかかる知っているのです。ですから、我等宇文部攻め込めば、その隙を衝いて国へ侵攻して来ることでしょう。もしも少数兵卒しか国内に残さなければ撃破されますし、守備堅めすぎれば遠征兵力不足します。つまり、高句麗心腹の病なのです宇文部攻略為には、それに先がけてまず高句麗を討つべきです。彼らの兵力を見ると、一度攻勢勝てます。この時、宇文部守り固めるだけで攻撃はしますまい。 既に高句麗奪ってから、転進し宇文部攻め取る。二国平定すれば、東海我が内海となります。国は富み兵は強くなり、後顧の憂いなくなります。そうしてこそ、中原進出を図ることができるのです」と進言すると、慕容皝はこれに同意して高句麗討伐乗り出した高句麗を攻撃するに当たって侵攻経路二つあり、その一方平坦道幅も広い北道であり、もう一方険阻な南道であった群臣誰もが北道を行くべきだと考えていたが、慕容翰は「敵も同様に考え北道警備厳重にしているはず。南道険阻大軍を動かすには不向きですが、精鋭兵だけで南道から進撃すれば、敵の不意を衝くことができますそうすれば丸都城高句麗本拠地現在の吉林省通化市集安市北西)も容易く落とせます。そして、別働隊北道抑え万一事態備えるのです。その心腹潰しておけば、四肢は何もできません」と進言すると、慕容皝はこの意見採用した11月慕容皝は自ら四万の兵を率いて出陣し南道進み慕容翰と平狄将軍慕容覇先鋒命じた長史王寓には1万5千を与え別働隊として北道を進ませた。故国原王は「皝軍は北路を進むであろう」と述べ、弟の高武へ5万精鋭兵を与えて北道へ向かわせ、自身残った弱兵率いて南の狭道へ出た慕容翰先行して故国原王軍と木底において激突すると、その間後続慕容皝本隊到着した。左常侍鮮于亮は数騎を引き連れて高句麗の陣を大いに乱すと、敵軍大い動揺した慕容皝はこれに乗じて総攻撃掛けて高句麗軍を大敗させ、左長史韓寿敵将仏和度加を討ち取った諸軍勝ちに乗じて追撃掛け遂に丸都へ突入すると、故国原王単騎逃走した軽車将軍慕輿泥追撃掛け、母の周氏と妻を捕らえてから帰還した北道では王寓らはいずれ敗北喫していたので、慕容皝これ以上追撃はせず、使者派遣して故国原王招いた。だが、故国原王応じなかったので慕容皝退却しようとしたが、韓寿進み出て高句麗の地は守るに不向きです。今、その主が滅んで民は逃散し、山谷潜伏しておりますが、我ら大軍去れば必ずやその残党纏め上げて勢力取り戻し、再び患い為すでしょう。そこで、父の屍と母を我が国持ち帰り、彼が自ら出頭するのを待ってこれを返還するのです。こうして恩信をもって慰撫するのが上策です」と勧めると、慕容皝はこれに従って故国原王の父の美川王の墓を暴いて屍を奪い、さらに母妻や府庫代々保管されている珍宝奪った。さらに男女5万人を捕虜とし、宮殿焼き払って丸都を破壊してから帰還した343年2月故国原王は弟を慕容皝の下へと派遣し臣下となる事を約束して数千貢物献上した。これにより美川王の屍を返還したが、母の周氏人質として留め置いた

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