相次ぐ戦役
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 20:48 UTC 版)
同年4月、前軍師慕容評・広威将軍慕容軍・折衝将軍慕輿根・盪寇将軍慕輿泥を後趙領の遼西へ侵攻させ、彼らは千家余りを捕獲してから軍を帰還させた。帰還の途上、後趙の鎮遠将軍石成・積弩将軍呼延晃・建威将軍張支らより追撃を受けたが、慕容評らはこれらを尽く返り討ちにして呼延晃・張支の首級を挙げた。 後趙の鎮遠将軍石成が凡城へ襲来したが、前燕軍はこれを撃退した。その後、石成は進路を変えて広城へ侵攻すると、これを攻め落とした。 9月、後趙の撫軍将軍李農・征北将軍張挙が3万の兵を率いて前燕領である凡城へ侵攻した。慕容皝は悦綰を禦難将軍に任じ、千の兵を与えて凡城防衛を命じた。悦綰は士卒の先頭に立って矢石に身を晒しながら防戦に当たり、10日間に渡って敵軍の侵攻を阻み続けると、後趙軍は遂に撤退した。 10月、子の盪寇将軍慕容恪と平狄将軍慕容覇(後の慕容垂)を派遣し、宇文別部を攻略させた。 11月、慕容皝は高句麗征伐に向かい、新城まで軍を進めた。故国原王が和を請うと、聞き入れて帰還させた。340年2月、高句麗の故国原王は世子を前燕へ派遣し、これを人質とした。 340年9月、慕容皝は本格的に後趙征伐を考えるようになり、落ち着いた様子で諸将へ「石虎は楽安の諸城の守備を厳重にしているが、薊城の南北は備えをしていないであろう。今、間道を通って不意を突けば、冀州の北土を尽く破ることができるであろう」と宣言した。10月、自ら精鋭の騎兵2万を率いて出撃し、西に進んで蠮螉塞に出た。各地で後趙の城砦を攻めていずれも守将を捕縛し、さらに進軍して薊城に至ると、後趙の幽州刺史石光は数万の兵を擁して城に立てこもった。その為、慕容皝は敢えて一戦を交えずに武遂津を渡河して高陽に進出し、通過する所で蓄えられていた穀物を焼き払い、幽州・冀州から三万戸余りを引き連れて帰還した。
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