太宗の評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/23 08:59 UTC 版)
『宋史』は、太宗の治世中に陳洪進・銭俶らの群雄を統合し、北漢を討って中華をほぼ統一したことを評価している。その治世中には北漢や遼、ベトナム、西夏などの相次ぐ戦役や、黄河の決壊や蝗害などの天災が起こったものの、民衆が反乱を起こさなかったのは、太宗の倹約と慈を旨とした政治のおかげだとしている。 毛沢東は,親征を繰り返すも軍事的に無能で度々敗れ契丹の敵では無く大きな禍根を残した,また道義に悖る手段で帝位を奪い北漢討伐では苦戦した腹癒せに太原を灰燼とする等狭量な小人と評している。 ただ、本来なら先代の太祖が死んだ時、年が変わるのを待って改元するべきであったこと、太祖の次男の趙徳昭が自殺してしまったこと、先代の皇后であった宋后の喪を行わなかったことなどは非難されてもやむを得ないことだとしている。また、太祖の死と自身の帝位継承、その後に起きた太祖の四男の趙徳芳や実弟の趙廷美(中国語版)への対応から千載不決の議と呼ばれる議論が起きている。
※この「太宗の評価」の解説は、「太宗 (宋)」の解説の一部です。
「太宗の評価」を含む「太宗 (宋)」の記事については、「太宗 (宋)」の概要を参照ください。
- 太宗の評価のページへのリンク