太守の併立と第二次カーナティック戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/01/27 04:18 UTC 版)
「カルナータカ太守」の記事における「太守の併立と第二次カーナティック戦争」の解説
同1748年、デカンのニザーム王国でも、アーサフ・ジャー1世が死亡し、息子のナーシル・ジャングと孫のムザッファル・ジャングが王位を争っており、 デュプレクスはこれに目を付けた。また、同じ頃にマラーター本国で幽閉されていたチャンダー・サーヒブも開放された また、イギリスとフランスは、カルナータカ地方政権とニザーム王国の内部争いに関与し、デュプレクスはチャンダー・サーヒブやムザッファル・ジャングと結ぼうとし、チャンダー・サーヒブもアンワールッディーン・ハーンから太守位を奪おうと狙っており、これに参加した。 そして、1749年8月3日、フランス、チャンダー・サーヒブとムザッファル・ジャングの連合軍は、アンワールッディーン・ハーンの軍をアンブールで破り、アンワールッディーン・ムハンマド・ハーンは殺害された(アンブールの戦い)。 アンワールッディーン・ハーン殺害後、その息子ムハンマド・アリー・ハーンが新太守となったが、チャンダー・サーヒブも太守位を宣し、2人の太守が両立する形となった。ムハンマド・アリー・ハーンはイギリスと結んでティルチラーッパッリ城に逃げ込み、第二次カーナティック戦争が勃発した。 1751年から1752年にかけて、チャンダー・サーヒブはフランスの援助のもと、ムハンマド・アリー・ハーンの篭城するティルチラーパッリ城を攻めた(ティルチラーパッリ包囲戦)。だが、この包囲に兵員の大部分を割き、首都アルコットが手薄となっていたため、1751年12月にイギリスのロバート・クライヴに奪われてしまった(アルコットの戦い)。 1752年 4月にはチャンダー・サーヒブ自身も敗れ、タンジャーヴール・マラーター王国に援助を求めたが、同年6月に裏切られて殺害された。その後、デュプレクスは善戦したものの、1754年8月に戦費の問題から帰還させられ、10月に和議が結ばれた。
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