ナーシル・ジャングとは? わかりやすく解説

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ナーシル・ジャング

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/12/24 02:49 UTC 版)

ナーシル・ジャング
Nasir Jung
第2代ニザーム
ナーシル・ジャング
在位 1748年 - 1750年
別号 フマーユーン・ジャー
ニザーム・ウッダウラ

全名 アフマド・アリー・ハーン
出生 1712年2月16日
死去 1750年12月16日
ジンジー
王朝 ニザーム王国
父親 カマルッディーン・ハーン
宗教 イスラーム教スンナ派
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ナーシル・ジャングウルドゥー語: نصیرجنگ‎, Nasir Jang, 1712年2月16日 - 1750年12月16日)は、インドデカン地方ニザーム王国(ハイダラーバード王国)の第2代君主(ニザーム、在位:1748年 - 1750年)。

生涯

ナーシル・ジャング

1748年、父であるニザーム王国始祖アーサフ・ジャーブルハーンプルで没した時、その長男ガーズィー・ウッディーン・ハーンは、父の代理としてムガル帝国の首都デリーの宮廷に出仕していた[1]

この機をついて、次男のナーシル・ジャングは首都アウランガーバードを抑え、ニザーム王国軍と宮廷の貴族達の支持を取り付ける事に成功した。彼は国庫を奪取してニザームを宣し、1749年2月4日にムガル帝国にもその継承を認められた[2]

しかし、その甥である ムザッファル・ジャングはこれに強硬に反対し、チャンダー・サーヒブフランスデュプレクスと結んで、ナーシル・ジャングに対抗しようとし、1748年8月第二次カーナティック戦争を引き起こした[3][4]

そのため、ナーシル・ジャングはチャンダー・サーヒブと対立していたイギリス側のムハンマド・アリー・ハーンと同盟し、戦争に参加するため、1750年1月南インドタミル地方に出陣した[5]

同年12月6日、ナーシル・ジャングはカダパナワーブであるヒンマト・ハーンにジンジー付近で殺害された[2][3][5]

脚注

  1. ^ Hyderabad 3
  2. ^ a b Hyderabad 4
  3. ^ a b チャンドラ『近代インドの歴史』、p.59
  4. ^ 辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』、p.199
  5. ^ a b 辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』年表、p.40

参考文献

  • 辛島昇 『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』山川出版社、2007年。 
  • ビパン・チャンドラ 著、栗原利江 訳 『近代インドの歴史』山川出版社、2001年。 

関連項目




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