諸勢力の動向とカーナティック戦争における王国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/03/20 10:00 UTC 版)
「タンジャーヴール・マラーター王国」の記事における「諸勢力の動向とカーナティック戦争における王国」の解説
首都占領後、ヴィヤンコージー2世の弟であるプラタープ・シング新たな王となった。彼は権臣サイイドを殺害し、1740年には先王の要請でやって来た援軍とともにカルナータカ太守の軍勢を駆逐した。 だが、1743年にニザーム王国の軍勢が南インドに遠征で侵入し、8月にティルチラーパッリを落とすと(ティルチラーパッリ包囲戦)、タンジャーヴール・マラーター王国はその従属下に置かれ、貢納を払わざる得なくなった。 1748年以降、カルナータカ地方政権とニザーム王国の継承問題により、第二次カーナティック戦争が勃発したが、プラタープ・シングはイギリス側のムハンマド・アリー・ハーンとナーシル・ジャングに味方した。 1751年6月12日、プラタープ・シングはイギリスの依頼により、タンジャーヴールに逃げていたチャンダー・サーヒブを処刑した。 1758年、第三次カーナティック戦争が勃発すると、フランスがタンジャーヴールに向けて進軍したため、プラタープ・シングはイギリスに味方し、イギリスの小隊とともにフランス軍に散発的な攻撃を行った。
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