諸勢力との共闘
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 18:30 UTC 版)
義昭は鞆に御所を構え、この地から京都への帰還や信長追討を目指し、全国の大名に御内書を下した。 畿内近国以外では、足利将軍家を支持する武家もまだまだ多かった。 5月16日、義昭は醍醐寺三宝院門跡の義堯に命じて、上杉謙信に武田・北条と講和し、幕府を再興するようにすすめさせた。これにより、謙信は本願寺と講和した。 6月11日、義昭は武田勝頼と上杉謙信に対して、互いに講和を命じた御内書を再度下し、毛利輝元と協力して協力したうえで信長を討つように命じた。 7月13日、毛利水軍が織田水軍を大阪湾木津川河口(現在の大阪市大正区に位置する木津川運河界隈)で破り、本願寺に兵糧や武器など物資を運び入れることに成功した(第一次木津川口の戦い)。毛利氏はこの勝利によって、京への進撃を決意し、その準備を進めた。 9月13日、義昭の求めに応じて、武田勝頼が上杉氏や北条氏との講和を承知し、16日に毛利輝元と同盟を結んだ。 9月以降、信長は将軍御所であった二条御所を完全に破却し、石垣は諸人に略奪させ、堀は京都の人々に埋めさせたほか、門や建物も安土に移築した。おそらく、信長は義昭と和解したのち、義昭を再びここに迎え入れようとし、そのために殿舎以外は破壊せずにいたものの、それがもはや不可能になったと判断したため、完全な破却を行ったと考えられる。 10月10日、義昭は輝元らに対して、西国の武士を集めて義兵を挙げるように命じた。 11月24日、義昭は輝元に対し、足利将軍家の家紋たる桐紋を与えている。 天正5年(1577年)1月、義昭は吉川元春に対し、翌月に陸海から京へ進撃する相談をするように命じた。 10月、信長は羽柴秀吉に中国地方攻略を命じ、姫路城を拠点に活動を始めた。そして、11月に播磨の上月城を攻め落とし、尼子勝久を入れた。 天正6年(1578年)1月、毛利氏が上月城奪還のため、粟屋元種を摂津に送ると、同月11日に義昭は高野山の金剛峯寺に出兵を要請した。 3月、上杉謙信が死去し、信長包囲網は大きな打撃を受けた。 5月24日、義昭は上月城の戦いのさなか、真木島昭光を上月城包囲の毛利氏の陣に派遣し、その将兵をねぎらうとともに、小林家孝を駐留・督戦させた。 7月3日、上月城が陥落し、尼子氏が滅亡すると、義昭は元春や隆景といった毛利氏諸将の戦功を褒めた。 8月、義昭は吉川元春の依頼を受け、島津氏に使者を派遣し、大友氏を牽制させ、毛利氏が京に進撃するときは援軍を差し出すことを要請した。 10月、荒木村重が有岡城で挙兵、信長に反旗を翻した(有岡城の戦い)。 11月19日、荒木村重が織田軍に攻撃されると、24日に義昭は吉川元春に対し、輝元に出兵するように勧めさせた。 12月、輝元は出陣を決意し、毛利氏有利のこの好機に乗じて上洛しようとした。そして、輝元出陣の日は翌年1月16日と定められ、諸将に下令された。輝元はそれに伴い、武田勝頼に徳川家康を攻撃し、織田氏の兵力を引き付けるよう要請している。 天正7年(1579年)1月、毛利氏の重臣・杉重良が大友氏の調略で謀反を起こし、毛利氏の背後である筑前や豊後に暗雲が垂れ込めた。このため、1月16日の出兵は無期限での延期となった。 6月、備前の宇喜多直家が毛利氏に対して反旗を翻したばかりか、9月には伯耆の南条元続も同様に反旗を翻した。これらの裏切りは、輝元の上洛断念によるものであるのみならず、信長が調略の手を伸ばした結果でもあった。 天正8年(1580年)1月17日、三木城の別所長治が自害し、播磨での信長への抵抗は収束に向かった。 閏3月5日、顕如が信長との勅命講和に応じ、大坂退去を約し、石山合戦が終結した。 6月、秀吉が因幡に侵攻し、毛利方の吉川経家が籠城する鳥取城を攻めた(鳥取城の戦い)。 天正9年(1581年)10月、鳥取城が秀吉に降伏し、吉川経家が自害した。義昭は情勢の悪化を見て、信長の出陣に備えるよう、吉川広家に命じた。 天正10年(1582年)3月、武田勝頼が信長や徳川家康らに攻められ、自害に追いやられた(甲州征伐)。 4月、秀吉が備中に侵攻し、同月に毛利氏の配下・清水宗治が籠もる備中高松城を攻撃し、5月には水攻めを行った(備中高松城の戦い)。他方、輝元は水攻めの急報を受けて、元春・隆景らと共に総勢5万の軍勢を率い、高松城の救援に向かい、秀吉と対峙した。
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