清水宗治とは? わかりやすく解説

しみず‐むねはる〔しみづ‐〕【清水宗治】

読み方:しみずむねはる

[1537〜1582]戦国時代の武将備中高松城主。羽柴秀吉水攻め敗れて自刃


清水宗治(しみず むねはる) 1537~1582

○長左衛門尉
◇室:石川孝女 子:清水宗之(行宗?)、景治
 備中・高松城主となり、安芸毛利氏傘下武将となる。尾張織田氏部将羽柴秀吉攻められたとき、3の兵に囲まれ籠城するが、水攻め遭う毛利援軍中々近づけず、高松城堅く容易に落ちなかったものの、脱出不可であった戦線膠着し本能寺の変発生したこともあって講和成ったが、その条件として宗治は城から小舟乗って出、潔く自刃した。

清水宗治

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/23 13:15 UTC 版)

清水 宗治(しみず むねはる)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将備中高松城主。三村氏毛利氏に仕えた。三村氏の有力配下・石川久智の娘婿となった。




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清水宗治(しみず むねはる)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 02:19 UTC 版)

センゴク」の記事における「清水宗治(しみず むねはる)」の解説

通称は長左衛門毛利家武将備中国高松城主。秀吉から提示され備中国備後国の二ヶ国の宛がいを拒否して高松城篭城している。入城する前に小早川隆景との会談秀吉底知れぬ才覚聞き、隆景の戦略通り一日でも長く篭城続け羽柴軍の厭戦流れ作るよう策略するが高松城水攻めにより失敗中国大返し進めるため和議により講和条件として切腹実際は、本能寺信長討たれたことについて密偵から知らされていたが、隆景の望む講和為に敢えて毛利側へ報告行っていなかった。

※この「清水宗治(しみず むねはる)」の解説は、「センゴク」の解説の一部です。
「清水宗治(しみず むねはる)」を含む「センゴク」の記事については、「センゴク」の概要を参照ください。

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