中国攻めとは? わかりやすく解説

中国攻め

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/22 01:26 UTC 版)

中国攻め(ちゅうごくぜめ)は、天正5年(1577年)以降に織田信長織田政権)が主として羽柴秀吉に命じて行った毛利輝元の勢力圏である山陽道山陰道に対する進攻戦中国征伐(ちゅうごくせいばつ)とも称する[注釈 3]。戦は足かけ6年にも及び、天正10年6月4日(西暦1582年6月23日)に講和するまで続いたが、その2日前、同月2日西暦1582年6月21日)に本能寺の変にて信長が横死したためそのまま未完に終わった。


注釈

  1. ^ 実際は高松城の水攻めを描いた絵だが、江戸時代は元亀・天正年間以降の事件を直接描くのは禁止されていたため、「赤松城」と名前をわざと変えている。
  2. ^ 天正6年の毛利氏出陣の時のみ、信忠が総大将となった。
  3. ^ 軍記物などでは「中国征伐」とも称する。「中国征伐」とは - コトバンク
  4. ^ 永禄12年(1569年)8月、信長は尼子氏を支援している但馬山名氏の背後を牽制するよう要請した毛利氏からの申し出を受けて木下秀吉や坂井政尚らに兵2万をつけて但馬に出兵している。但馬の生野銀山の支配が目的であったという[1][2]
  5. ^ a b 天正元年11月に毛利側の外交僧として安国寺恵瓊が上洛し、義昭の帰洛条件について羽柴秀吉、朝山日乗とともに義昭と会見した。この時、義昭が信長の人質を要求したのを秀吉が拒否したため交渉は決裂、恵瓊は義昭が西国に来ないよう要望したため、義昭はやむなく紀伊に立ち退いた[6]
  6. ^ ただし、山名氏の研究者の間では天正2年当時の芸但同盟(毛利氏と山名氏の同盟)は尼子勝久やこれに呼応する三村氏・浦上氏に対抗する目的のものであり、天正4年の織田・毛利両氏の関係が破綻する以前の山名氏において「親織田」と「親毛利」の方針は矛盾なく両立していた(芸但同盟締結後の祐豊は一貫して毛利方・信長方両方との連携を保っていた)とする指摘がある[10]
  7. ^ 当初、輝元は義昭を庇護することに難色を示したが豊後の大友氏など西方の脅威が去り、播磨・丹波などにおける反毛利勢力が信長にしたがう趨勢をみて東方の脅威が増大したことに危機感を抱いて態度を変えた[11]
  8. ^ 義昭を直接庇護した小早川隆景の天正7年3月の書状によれば、義昭が鞆にあることによって遠国からも毛利あてに便りがとどくようになったとして、これを喜んでいる[13]。また、吉川元春は義昭が鞆に来た天正4年の段階で花押を変えている[14]
  9. ^ 義昭は鞆に移ってからも天正16年(1588年)まで公式には征夷大将軍の職にあり、彼自身及びその御所は「鞆公方」とよばれた。また、京都五山鎌倉五山など有力禅寺の住持の任命権を保持していた[15]
  10. ^ それまで越前・加賀の門徒たちは甲斐の武田氏と結んで謙信と敵対していたが勝頼の父・武田信玄が死去し、長篠の戦いで武田氏が敗北を喫し、信長が越前を制圧したことによってさらに危機感をつのらせ、急速に上杉との講和に傾いた[18]
  11. ^ 輝元と直家の和議の成立により、毛利と結んで直家に対抗していた備中の三村元親、直家と結んで毛利に対していた美作三浦氏がそれぞれ離反したため、両氏はともに毛利・宇喜多の軍勢に滅ぼされた[22]
  12. ^ 備中の三村氏と毛利・宇喜多氏の戦いについては「備中兵乱」参照。
  13. ^ 藤田達生は、義昭が歴代将軍同様、「日本国王」として朝鮮王国琉球王国など東アジア外交に大きく関わっていた可能性があり、赤間関(山口県下関市)を窓口としていた毛利氏はこれにより有利な条件を獲得しえたのではないかと指摘している[24]
  14. ^ a b 熱田公は、それ以前から秀吉の播磨調略がおこなわれているので、秀吉の北陸戦線離脱は、信長の内諾もえた予定の行動で、勝家と対立した件も敵味方の目をくらます芝居であった可能性を指摘している[28]
  15. ^ 熱田公は上月城を包囲する毛利勢を兵3万としている[36]
  16. ^ 上杉氏の家中ではその後、謙信の後継争いがつづいた(御館の乱)。
  17. ^ 村重はのちに秀吉に近侍して堺に居住し茶人として名をなした。
  18. ^ 「彼らの悲しみの声は煙につれて空に響き、その残虐さは獄卒の呵責に等しい」と伝えている[50]
  19. ^ 秀吉は、2月末の京都御馬揃えには参加しなかった。
  20. ^ a b この年(天正9年)の9月17日には、信長方の摂津山下城(兵庫県川西市)の城主塩川国満が丸山城の城主能勢頼道の謀殺に成功している。同じ「丸山城」の名であるが、こちらは摂津能勢郡(現在の大阪府能勢郡能勢町)に所在する平山城である。
  21. ^ 秀吉が斎藤玄蕃允・岡本太郎左衛門の両名にあてた手紙のなかにある文章。信長が筑前(秀吉)を評して語ったことばという。

出典

  1. ^ 池上 2002, p. 84.
  2. ^ 山本 2007.
  3. ^ a b c 池上 2002, p. 82.
  4. ^ 池上 2002, p. 152.
  5. ^ 『クロニック戦国全史』(1995)p.430
  6. ^ 熱田 1992, p. 92.
  7. ^ a b c 熱田 1992, p. 114.
  8. ^ 寺尾克成「浦上宗景考―宇喜多氏研究の前提―」『國學院雑誌』92巻3号、1991年。 
  9. ^ a b c 池上 2002, p. 95.
  10. ^ 山本浩樹「戦国期但馬国をめぐる諸勢力の動向」(初出:科学研究費補助金研究成果報告書『戦国期西国における大規模戦争と領国支配』(2007年)/所収:市川裕士 編『シリーズ・中世西国武士の研究 第五巻 山陰山名氏』(戎光祥出版、2018年) ISBN 978-4-86403-293-3) 2018年、P162-171.
  11. ^ 藤田 2003, pp. 92–94.
  12. ^ 池上 2002, p. 94.
  13. ^ 藤田 2003, pp. 91–92.
  14. ^ 藤田 2003, p. 95.
  15. ^ 藤田 2003, pp. 98–99.
  16. ^ a b c d 『クロニック戦国全史』(1995)pp.436-437
  17. ^ 熱田 1992, pp. 115–116.
  18. ^ 『クロニック戦国全史』(1995)p.437
  19. ^ a b 池上 2002, pp. 95–96.
  20. ^ 神田 2002, p. 248.
  21. ^ 竹林 2000, p. 168.
  22. ^ 竹林 2000, pp. 168–169.
  23. ^ a b c d 池上 2002, p. 96.
  24. ^ 藤田 2003, pp. 100–101.
  25. ^ a b c d 熱田 1992, p. 131.
  26. ^ 熱田 1992, pp. 131–132.
  27. ^ 藤田 2003, pp. 102–103.
  28. ^ 熱田 1992, p. 132.
  29. ^ a b c 今井・三浦 2004, pp. 178–179.
  30. ^ a b c 熱田 1992, p. 133.
  31. ^ 山本浩樹「戦国期但馬国をめぐる諸勢力の動向」(初出:科学研究費補助金研究成果報告書『戦国期西国における大規模戦争と領国支配』(2007年)/所収:市川裕士 編『シリーズ・中世西国武士の研究 第五巻 山陰山名氏』(戎光祥出版、2018年) ISBN 978-4-86403-293-3) 2018年、P171-172.
  32. ^ a b c 宮野「豊臣秀吉合戦総覧」(1996)pp.80-87
  33. ^ 『クロニック戦国全史』(1995)p.442
  34. ^ 三浦周行『新編 歴史と人物』(1990)p.209。原文は『歴史と人物』(1922)収載(執筆は1911年明治44年)9月)。
  35. ^ a b c 熱田 1992, p. 134.
  36. ^ 熱田 1992, pp. 134–135.
  37. ^ 『クロニック戦国全史』(1995)p.445
  38. ^ 池上 2002, p. 98.
  39. ^ a b c 今井・三浦 2000, pp. 178–179.
  40. ^ 安田 1984, pp. 180–181.
  41. ^ 杜山(1990)p.297
  42. ^ 熱田 1992, p. 136.
  43. ^ a b 藤田 2003, p. 104.
  44. ^ a b c 池上 2002, p. 99.
  45. ^ 熱田 1992, p. 139.
  46. ^ 安田 1984, p. 182.
  47. ^ 『クロニック戦国全史』(1995)p.451
  48. ^ 竹林 2000, p. 169.
  49. ^ 池「天下統一と朝鮮侵略」(2003)pp.37-38
  50. ^ 池上 2002, p. 98(原出典は『信長公記』)
  51. ^ a b c 熱田 1992, p. 140.
  52. ^ a b 宮野「豊臣秀吉合戦総覧」(1996)p.89
  53. ^ 今井・三浦 2004, pp. 179–180.
  54. ^ 神田 2002, pp. 257–258.
  55. ^ 日置「豊臣秀吉合戦総覧」(1996)p.93
  56. ^ a b c d e f g h 谷口 2005, pp. 200–203
  57. ^ 池「天下統一と朝鮮侵略」(2003)p.38。原出典は『織田信長文書の研究』894号
  58. ^ 『クロニック戦国全史』(1995)p.469
  59. ^ 熱田 1992, p. 171.
  60. ^ 教育社編『日本重要戦乱事件事典』(1988)「中国攻め」p.337
  61. ^ a b 安田 1984, p. 183.
  62. ^ 熱田 1992, p. 172.
  63. ^ 日置 1997, pp. 139–140.
  64. ^ 竹林 2000, pp. 169–170.
  65. ^ a b 市川「豊臣秀吉合戦総覧」(1996)pp.102-104
  66. ^ 『クロニック戦国全史』(1995)p.471
  67. ^ 熱田 1992, pp. 180–181.
  68. ^ a b 安田 1984, p. 184.
  69. ^ 宮本 1994.
  70. ^ 『クロニック戦国全史』(1995)p.473
  71. ^ 池上 2002, p. 137.
  72. ^ 池上 2002, p. 142.
  73. ^ a b c 安井(1996)p.16
  74. ^ 安井(1996)pp.16-17
  75. ^ a b c 安井(1996)pp.18-19


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中国攻め

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豊臣秀吉」の記事における「中国攻め」の解説

天正9年1581年)には因幡山名家家臣団が、山名豊国但馬守護・山名氏政一門)を追放した上で毛利一族吉川経家立てて3000の兵で鳥取城にて反旗を翻したが、秀吉鳥取周辺兵糧買い占めた上で兵糧攻め行い、これを落城させた(鳥取城の戦い)。その後中国地方西半を支配する毛利輝元との戦い続いた同年岩屋城攻略し淡路国支配下置いた天正10年1582年)には備中国侵攻し毛利方の清水宗治が守る備中高松城水攻め追い込んだ高松城の水攻め)。このとき、毛利輝元吉川元春小早川隆景らを大将とする5万毛利軍対峙し、信長援軍要請している。 このように中国攻めでは、三木の干殺し鳥取城飢え殺し、そして高松城の水攻めといった、金と時間かかっても敵を確実に下して味方勢力温存する秀吉得意の兵糧攻め戦術遺憾無く発揮されている。

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