豊臣国松とは? わかりやすく解説

豊臣国松

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2026/08/07 00:49 UTC 版)

 
豊臣 国松
時代 江戸時代前期
生誕 慶長13年(1608年
死没 慶長20年5月23日1615年6月19日
別名 國松、羽柴国松
戒名 漏世院雲山智西大童子
向陽院殿梅蕚童子[1]
墓所 誓願寺京都市中京区)→豊国廟東山区今熊野北日吉町)
氏族 豊臣氏羽柴氏
父母 父:豊臣秀頼、母:伊茶[注釈 1]
兄弟 国松天秀尼求厭[異説あり]
特記
事項
国松が生き延びたという伝承があり、木下延由(豐臣延由)となった、あるいは鹿児島に逃れたという異説がある。
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豊臣 国松(とよとみ くにまつ / とよとみ の くにまつ)は、江戸時代前期の人物。豊臣秀頼の子で、豊臣秀吉の孫。

妹(一説には姉)に天秀尼がいる。他にも庶弟がいたという伝承・噂が江戸時代からあった。

生涯

慶長13年(1608年)、豊臣秀頼庶子として誕生。母は秀頼の側室の伊茶[注釈 1]幼名は国松。

国松は生後すぐ、秀頼の叔母の常高院の嫁ぎ先である若狭京極家に預けられた後、乳母の兄である若狭の砥石屋弥左衛門の養子となった。これは、秀頼の正室である千姫を憚ったものと見られているが、結局、秀頼には嫡子は生まれなかった。

慶長19年(1614年)、大坂冬の陣が起こると、国松は秀頼の隠し子との詮議を受けぬよう、常高院と共に大坂城に入城。その時、生まれて初めて父の秀頼と面会した。その後、和議が整ったので、そのまま城に滞在していた。

慶長20年(1615年)、大坂夏の陣が起こると、5月8日に国松は秀頼と盃を交わし、田中六郎左衛門[注釈 2]と乳母に連れられて城を落ち延びた。

5月21日、国松は徳川方の捜索により[注釈 3]伏見農人橋で捕らえられた[2]。また、別に逃げた妹も、5月12日に京極忠高によって捕まっている。妹は助命されたが[注釈 4]、国松は京都所司代板倉勝重に引き渡され、二条城にいた徳川秀忠のもとに連行された[2]

5月23日夕刻、国松は市中車引き回しの後、六条河原斬首された[2]享年8。

イエズス会の日本年報によれば、国松は死に際しても堂々たる態度で、「内府(徳川家康)に向ひ、其の父(秀頼)に対する神聖なる誓約を破りたるを甚しく責め」て亡くなったという[3][注釈 5]。『薩摩舊記』によれば、若年にして果てたその姿に「上下共に感じ申候」と周囲が落涙した様子を記し、『細川家記』は「目もあてられさる次第に候事」と凄惨な状況だったと描写している[1]

田中六郎左衛門は京極家の者として死罪を免れ得たものの、自ら殉死を志願して同時に処刑されたという。国松の乳母だけが助命された。

没後

太閤坦(たいこうだいら)にある豊国廟の国松の墓

国松の遺体は、秀吉の側室であった京極竜子(松の丸殿)によって引き取られ、京極氏所縁の京都市中京区誓願寺に埋葬された。

明治44年(1911年)、国松の墓所は東山区豊国廟の内に移されている。

浄土宗での戒名は「漏世院雲山智西大童子」、日蓮宗での法号は「向陽院殿梅蕚童子」[1]となっている。

生存説

異説で、国松は(秀頼と共に)薩摩国に落ち延びて島津氏に匿われた後、豊後国日出藩木下家の分家の交代寄合の祖・木下延次(延由)になったという生存説がある[4]。その根拠として大分県杵築市の立石長流寺にある延次の位牌の表に「江岸寺殿前掖庭月淵良照大居士」で、裏に「明暦四年戊戌稔七月六日 木下縫殿助豊臣延由」と刻まれていることがあげられる[5]。地元では、延由が豊臣国松であったことが立石藩の立藩の理由という説がある[6]

高台院の兄・木下家定の三男・木下延俊を初代とする旧日出藩木下家の19代当主木下崇俊[注釈 6]によると、木下家には「国松は薩摩に落ちのびた」という一子相伝の言い伝えがあるという[8]。延俊が大坂の陣の際に陣取っていた備中島には大坂城につながる抜け道があり、それを使って国松は真田信繁の子大助とともに逃げ、薩摩藩の船で薩摩の伊集院へ落ちのびたのち、日出藩に身を寄せ、延俊の死後、領地を分け与えられて立石藩主木下延由となったという[8]。秀頼についての伝承はないが、鹿児島市谷山地区の木之下集落には、秀頼のものと伝わる墓がある[8]

相伝によれば、国松は四国経由で薩摩国に渡り、伊集院兼貞に匿われたが[注釈 7]、徳川の治世が確固となった後は、噂の漏洩を恐れて日出藩に身を寄せた。高台院の甥である初代藩主延俊は、国松を二代弟として迎え入れたという[10]。延俊は寛永19年(1642年)1月、縫殿助を延由と改名させ、1万石を分知せよと遺言したが、家老の長澤市之亟はこれを承諾せず、半分の5,000石とされた[10]。伝承によれば、後に延由の正体を知った市之亟は、亡き主君の意志を理解し得ず君命に背いたと遺言し、延宝元年(1673年)に切腹したという。また、立石領5,000石を受け継いだ延由は、他の兄弟たちからは疎遠にされたとの話を伝わっている。

また、国松は出家して、駿州駿府の玉桂山華陽院[11]三世桑誉了的[12]の弟子となったという別説もある[13][14]

脚注

注釈

  1. 1 2 伊勢出身の女中某や、小田原北条氏家臣の成田氏の成田五兵衛の娘との説があるが、最近は渡辺五兵衛の娘とする説が有力である。
  2. 京極家の侍で、傅役となった。乳母の夫であった。
  3. 当時の追っ手には国松の顔を知る者がなかったため、先に国松の乳兄弟を捕らえた。後から捕らえられた少年達の内、国松と乳兄弟が抱き合って喜び合ったのを見て、国松の真贋を確認したといわれる。
  4. 妹は千姫の養女として僧籍に入ることを条件に助命され、翌年に鎌倉東慶寺で出家し、天秀と号した。
  5. 誓約とは、豊臣秀吉の死の床において、徳川家康が秀吉から秀頼の将来を託されていたことをさす。
  6. 『豊臣家存続の謎』では同氏の父親である「旧 日出出藩 豊臣十八世裔 木下俊煕」が登場して同じ言い伝えを述べている[7]
  7. ただし、『豊臣家存続の謎』の俊𠘑は伊集院兼貞は誤伝で、伊集院は地名で、虚無僧の集落であって、人物は伊地知兼貞であったとする[9]

出典

  1. 1 2 3 井上 1983, p. 117.
  2. 1 2 3 大日本史料12編20冊523頁.
  3. 東京大学史料編纂所 編『国立国会図書館デジタルコレクション 大日本史料 第12編之20』東京大学、1918年、163-164頁
  4. 加藤国光 編『尾張群書系図部集(上)』続群書類従完成会、1997年、342頁。ISBN 9784797105551
  5. 前川1981, p. 255-261, 写真あり.
  6. 前川1981, p. 255.
  7. 前川1981, p. 13.
  8. 1 2 3 構成 横山健 (2015年8月31日). 「敗軍の将」の末裔が明かす大名家に伝わる極秘の言い伝え”. Aera dot. 週刊朝日. 2022年4月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月21日閲覧。
  9. 前川 1981, p. 84.
  10. 1 2 高橋敏『『大阪落城異聞:正史と稗史の間から』 岩波書店 2016年 ISBN 978-4-00-061092-6 pp.51-55,71-74,93.
  11. 玉桂山華陽院は静岡県静岡市葵区鷹匠2丁目にある浄土宗の寺院。
  12. 了的」『日本人名大辞典+Plus』コトバンクより2022年4月21日閲覧
  13. 加藤国光 編『尾張群書系図部集(下)』続群書類従完成会、1997年、634頁。 ISBN 9784797105568
  14. 井上 1983, p. 119.

参考文献

生存説

外部リンク





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