甲斐姫の消息
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/26 22:40 UTC 版)
豊臣秀頼は、正妻の千姫のほかに側室をもうけていた。その内の一人は伊勢国の北畠氏の一族である成田吾兵衛助直の娘で小石の方といい、秀頼との間に娘をもうけた。小石の方と甲斐姫はそれぞれ異なる出自を持つが、武蔵国と伊勢国の成田氏が混同されたため「秀頼の娘と関わった」とする説が生まれたと推測されており、その中には秀頼の娘は甲斐姫の実の娘とする説も存在する。 秀頼の娘は岸和田城城主・小出吉英の家臣である三宅善兵衛の下に預けられ、その妻が乳母を務めた。慶長20年(1615年)、大坂夏の陣の際に秀頼の娘は豊臣国松と共に大坂城にあったが、落城後に京都郊外に潜伏していたところを5月12日に徳川方の京極忠高により捕らえられ、国松も5月21日に徳川方に捕えられた。国松は死罪となったものの、秀頼の娘は千姫の助命嘆願もあって死を免ると後に鎌倉にある東慶寺に入り、落飾して天秀尼となり30歳前後のころに第20世住持となった。 天秀尼は正保2年2月7日(1645年3月4日)に37歳で亡くなったが、東慶寺にある天秀尼の墓の横には従者のものと見られる宝篋印塔がある。この塔の側面には「台月院殿明玉宗鑑大姉 天秀和尚御局 正保二年乙酉九月二十三日」と記されているが、これが甲斐姫の墓であり、上述のように秀頼の娘と共に寺に入った従者が甲斐姫であるとの説がある。『新東鑑』によれば、秀頼の娘の乳母を務めた三宅善兵衛の妻は大坂の陣の際に夫が戦死したため、主の三宅氏の下に預けられたと記されている。また、宝篋印塔の形状や「院殿」の戒名は、従者が生前に高貴な身分であったことを示しており、従者は三宅善兵衛の妻ではなかった可能性がある。 三宅善兵衛の妻とは別に秀頼の娘の養育にあたった身分の高い人物が存在し、「男性であっても困難な戦場からの脱出行」や「助命のための千姫との交渉」を手助けし、共に東慶寺に入り死の間際まで守り続けた可能性がある。三池純正著の『のぼうの姫 秀吉の妻となった甲斐姫の実像』では、甲斐姫であれば上記の条件にすべて符合するのではないか、としている。
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