じつ‐ぞう〔‐ザウ〕【実像】
実像
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/20 02:15 UTC 版)
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実像(じつぞう、英: real image[1])とは、凸レンズ や凹面鏡の焦点の外に物体を置くとできる、屈折、反射された光線が実際に集まって作る像のことをいう。
凸レンズにおける実像
凸レンズでは、物体を焦点よりも外側に置くことによって生じる。
作図をするには、凸レンズの項の光の進路3本のうちの2本を描けば像が収束する箇所がわかる(この場合は(1)と(3)を利用した)。光の逆進の原理から、像が収束するのはレンズ後側焦点の外側である。また図からわかるとおり、凸レンズによって生じる実像は倒立である。軸と平行にレンズを通った光は、レンズを通った後レンズの焦点を通る。レンズの中心を通った光は、レンズを通った後も、直進する。
凹面鏡における実像

凹面鏡による実像は焦点の外側に物体を置くことによって生じる。このことは以下の作図によって示される。
作図からわかるとおり、この場合も実像は倒立である。最も身近な凹面鏡はスプーンである。この作図は1次元的であるため上下が逆になるだけであるが、実際の凹面鏡は2次元的であるために上下左右全てが逆になる。スプーンで自分の顔を映すとこのことが実感できる。
脚注
関連項目
実像
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/07 07:22 UTC 版)
「ミュンヒハウゼン男爵」の記事における「実像」の解説
ミュンヒハウゼン男爵カール・フリードリヒ・ヒエロニュムス(Karl Friedrich Hieronymus Freiherr von Münchhausen、1720年5月11日 - 1797年2月22日)は、18世紀のプロイセン貴族である。現在のニーダーザクセン州の街ボーデンヴェルダーでミュンヒハウゼン家の第5子として生まれる。15歳のとき、ブラウンシュヴァイク公家に小姓として出仕した。 ロシアに移っていたブラウンシュヴァイク公子アントン・ウルリヒは、死亡した小姓の補充を実家に求めた。1737年、ミュンヒハウゼンはアントン・ウルリヒに仕えるためロシアに渡るが、1739年にアントン・ウルリヒの元を去り、バイロン公爵夫人の求めに応じてロシア軍騎兵少尉に任官した。 アントン・ウルリヒは1739年にアンナ・レオポルドヴナと結婚し、大元帥に就任する。1740年、アンナは息子のイヴァン6世を擁して摂政に就任する。この政変の余波で、ミュンヒハウゼンは中尉に昇進した。リガに駐屯していたが、1740年および1741年の対オスマン帝国戦には参加している。 1741年12月、政変によりイヴァン6世が廃され、アントン・ウルリヒはアンナとともに幽閉された。ミュンヒハウゼンはその2年前にアントン・ウルリヒの元を去っていたため、追及から免れた。1744年、リヴォニア近郊の町ペルニエルで判事の娘ヤコビン・フォン・デュンテンと結婚する。 1750年には大尉に昇進する。休暇を取り、妻を伴ってボーデンヴェルダーに帰省した。しかし母が死に、また2人の兄が戦死して、ヒエロニュムスがミュンヒハウゼン家を継ぐことになったため、ロシアに戻ることはなかった。1754年、ロシア軍から除籍される。 ボーデンヴェルダーでのミュンヒハウゼンは機知に富んだ話術で広く評判を集めたが、同時に実務的な面については誠実な人物とも評されていた。妻に先立たれた後、1794年に再婚したが、不和から離婚に至っている。1797年に没した。子供はなかったが、カリーニングラード(旧:ケーニヒスベルク)には「ミュンヒハウゼンの末裔たち」というクラブがあり、2005年にはミュンヒハウゼンの像が建てられた。
※この「実像」の解説は、「ミュンヒハウゼン男爵」の解説の一部です。
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