ロシアに渡る
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/28 14:37 UTC 版)
「アダム・イエジィ・チャルトリスキ」の記事における「ロシアに渡る」の解説
1795年事実上、人質としてロシアに渡ったチャルトリスキ兄弟は、ペテルブルクの宮廷に仕官する。二人はロシア軍に入隊し、アダムは騎兵将校、コンスタンチンは歩兵将校としてそれぞれ勤務することになった。女帝エカテリーナ2世はチャルトリスキ兄弟に好意的であり、元の所領の一部を返還した上、1796年前半に侍従に取り立てた。 同時期、すでにチャルトリスキは、ゴリツィン公爵夫人主催の舞踏会を通じて、皇孫アレクサンドル大公(後の皇帝アレクサンドル1世)と知り合い、若き貴公子たちは互いに強い「知的な友情」を結ぶこととなる。エカテリーナ2世が崩御し、パーヴェル1世が即位すると、チャルトリスキは皇太子となったアレクサンドルの副官に任命され、3ヶ月の休暇を許されポーランドのチャルトリスキ家領に戻ることを許可されている。この時期、ロシアの宮廷には非常に自由主義的な空気が充溢し、熱狂的な人文主義者、啓蒙主義者であったピョートル・ヴォルコンスキーとニコライ・ノヴォシリツェフが大きな影響を与えていた。 チャルトリスキは、パーヴェル1世の治世、10年間を通じて皇帝の信任を維持することに成功した。1798年12月パーヴェル1世は、チャルトリスキを駐サルジニア王国公使に任命した。イタリアでチャルトリスキが目にしたものは、分裂した国家であった。チャルトリスキはイタリア滞在中、ナポリへの遊覧旅行やイタリア語の習得と古代ローマの遺跡調査などに精を出した1801年パーヴェル1世が暗殺され、アレクサンドル1世が即位すると、新帝は友人のひとりであるチャルトリスキをロシアに召還した。
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