ロシアに関する考察
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/09 14:33 UTC 版)
新疆イリに左遷後、林則徐は、ロシアと国境を接する現地の実情に触れ、以後陝甘総督に就任して現地を離れるまでの3年間、現地でロシアについて考察を行い、『俄羅斯国紀要』を著した。林則徐は、イギリス・ロシア双方に接した経験から、イギリスよりもロシアの方が清の国防上脅威となると認識しており、この考えを交流のある要人に伝えた。三女の夫である沈葆楨はこの考えを受け継いでおり、また、1849年(道光29年)、林則徐が雲貴総督を退任後、福建への帰郷途上の長沙で左宗棠の訪問を受けて会談した際には、ロシアに関する収集資料を与えている。彼等をはじめとする、国防上の重点を対ロシア政策に置く指導者は、「塞防派」と呼ばれることとなる。 林則徐の書。右の「海納百川有容乃大」は中国語版ウィキペディアの副題に用いられている。 林則徐の書
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