左遷後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 00:34 UTC 版)
「エドヴィン・フォン・マントイフェル」の記事における「左遷後」の解説
シュレースヴィヒ総督となったマントイフェルはアウグステンブルク公の独立公国を目指そうという勢力の集会を徹底的に弾圧した。しかしオーストリアが統治するホルシュタインの方では1866年1月にアウグステンブルク公派の集会の開催が許可され、これがガスタイン協定(ドイツ語版)違反として墺普間の外交問題となった。その対策を話し合うための2月28日の御前会議では、ビスマルクや参謀総長モルトケと歩調を合わせ、オーストリアに対する開戦を支持した。 1866年の普墺戦争では最初にホルシュタインを占領し、その後、エドゥアルト・フォーゲル・フォン・ファルケンシュタイン(英語版)将軍の指揮下で一師団を指揮した。戦功によりプール・ル・メリット勲章を受勲した。また1866年10月に騎兵大将に昇進した。 1870年の普仏戦争ではカール・フリードリヒ・フォン・シュタインメッツ元帥の指揮下で第一軍団(ドイツ語版)を指揮した。戦功により大鉄十字章や黒鷲勲章を受勲した。 1873年9月に元帥に昇進した。 1876年9月、バルカン半島情勢をめぐってオスマン帝国とロシア帝国の開戦の可能性が高まる中、強硬保守派(親露派)の代表格とされていたマントイフェルはロシアを宥めるため、ロシア皇帝アレクサンドル2世のもとに派遣された。 1879年にエルザス=ロートリンゲン(アルザス=ロレーヌ)総督に任じられた。1885年6月17日、カールスバートにて死去。
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