御前会議
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御前会議(ごぜんかいぎ、旧字体: 御前󠄁會議)とは、明治期から太平洋戦争終結時まで、国家の緊急の重大問題において天皇臨席のもとに元老、主要閣僚、軍首脳が集まって行われた合同会議[1]。ただし法制上には規定はなかった[1]。
概要
広義には、官制上天皇親臨が定められていた枢密院会議、また王政復古直後の小御所会議や、天皇臨席の大本営会議なども御前会議といえる。しかし、狭義には、戦争の開始と終了に関して開かれた、天皇・元老・閣僚・軍部首脳の合同会議を指す。
1894年(明治27年)に対清開戦(日清戦争)を決定したのが最初。以後、三国干渉や日露戦争などに際して開催され、1938年(昭和13年)以後には日中戦争(支那事変)の処理方針、日独伊三国同盟、対米英蘭開戦=真珠湾攻撃による太平洋戦争開戦、太平洋戦争終結などを決定した。
大日本帝国憲法第13条には、天皇が開戦と終戦を決定する事が明記されていたが、例えば「御前会議法」というような法制上の開催根拠がないなど、御前会議の開催は困難であった。また天皇による意思の表明・発動は(天皇自らにその責任が及ぶため)好ましくないとされ、たとえ出席しても一言も発しないことが多かった。
御前会議での決定は、即時でそのまま国家意思の決定となるのでなく、改めてその内容について正式の手続(例えば閣議)の諮問を経てから正式に決定された
構成員
日中戦争以後の御前会議
1938年(昭和13年)に復活して以降について記す。
回 | 開催日 | 議題 | 内閣 | 昭和天皇の発言等 |
---|---|---|---|---|
1 | 1938年(昭和13年) 1月11日 | 支那事変処理根本方針[2] | 第1次近衛内閣 | |
2 | 1938年(昭和13年) 11月30日 | 日支新関係調整方針 | ||
3 | 1940年(昭和15年) 9月19日 | 日独伊三国同盟条約[3] | 第2次近衛内閣 | |
4 | 1940年(昭和15年) 11月13日 | 支那事変処理要綱に関する件ほか[4] | ||
5 | 1941年(昭和16年) 7月2日 | 情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱[5] | ||
6 | 1941年(昭和16年) 9月6日 | 帝国国策遂行要領[6] | 第3次近衛内閣 | 明治天皇の御製を詠む形で、対米開戦回避を示唆。 「よもの海 みなはらからと思ふ世に など波風のたちさわぐらむ」 |
7 | 1941年(昭和16年) 11月5日 | 対米交渉要綱(甲案・乙案)、帝国国策遂行要領[7] | 東條内閣 | |
8 | 1941年(昭和16年) 12月1日 | 対英米蘭開戦の件[8] | ||
9 | 1942年(昭和17年) 12月21日 | 大東亜戦争完遂の為の対支処理根本方針 | ||
10 | 1942年(昭和17年) 12月31日 | ガダルカナル島からの撤退と東北部ニューギニアへの作戦重点変換について[9] | ||
11 | 1943年(昭和18年) 5月31日 | 大東亜政略指導大綱 | ||
12 | 1943年(昭和18年) 9月30日 | 今後採るべき戦争指導の大綱ほか | ||
13 [注釈 1] | 1944年(昭和19年) 8月19日 | 小磯内閣 | ||
14 | 1945年(昭和20年) 6月8日 | 今後採るべき戦争指導の基本大綱 | 鈴木内閣 | |
15 | 1945年(昭和20年) 8月10日[注釈 2] | ポツダム宣言受諾の可否について | 鈴木貫太郎から乞われる形で宣言受諾の意思表明(いわゆる聖断)。 | |
16 | 1945年(昭和20年) 8月14日 | ポツダム宣言受諾の最終決定 | 再度、宣言受諾の意思表明(再度の聖断)。 |
場所
御前会議は通常、明治宮殿車寄を入って右側にある「東一の間」などで開催された。しかし終戦直前の2回の御前会議は、「望岳台」近くの地下壕「御文庫附属庫」で行われた。地下10m、部屋の広さは15坪ほどであり、天皇・皇后の寝室・居間のある御文庫[注釈 3]からは90m離れており、地下道でつながっていた。1945年(昭和20年)には、大型爆弾にも耐えられるよう陸軍工兵隊が補強工事を行い[10]、附属庫での初めて枢密院本会議が、1945年(昭和20年)6月2日に開催された[注釈 4]。
日英米開戦をめぐって
1941年(昭和16年)9月6日の第六回御前会議では、前述の通り、昭和天皇は祖父明治天皇の御製を冒頭で引用した。この意図について、昭和天皇は1985年(昭和60年)4月15日の記者会見で次のように語った。
「会議の議題の第一議に戦争準備をすることが掲げられ、また、次に平和のための努力となっていましたが、私は平和努力と言うことが第一義になることを望んでいたので、明治天皇の御歌を引用したのです」[11]
天皇は、この前日に近衛文麿首相から帝国国策遂行要領の内奏(事前報告)を受けており、このとき天皇の回想と同様の発言があったと、近衛文麿側の手記にも記録がある[11]。
当時陸軍省軍務局高級課員であった石井秋穂は、第一項に戦争、第二項に外交という記述をしたのは自分であると、後にNHKテレビ番組で証言している[12]。
会議当日の杉山元陸軍参謀総長のメモ(杉山メモ)にも、平和的外交をするよう、天皇から命ぜられたと記録がある[11]。
脚注
注釈
- ^ この回より、「御前に於ける最高戦争指導会議」の名称で開かれている
- ^ 通説では8月9日深夜に始まったとされていたが、『昭和天皇実録』において8月10日0時3分開始と確認された(昭和天皇実録:ポツダム宣言受諾、2・26… 分刻み、克明記録 研究手がかりに 毎日新聞 2014年9月9日)。
- ^ 1942年(昭和17年)12月31日竣工。建坪1320m2。当初1t爆弾に耐えられるようコンクリートと砂の3重構造で作られたが、後に6t爆弾に耐えられるよう補強された(『天皇裕仁と東京大空襲』 松浦総三 1994年)。
- ^ 枢密院は皇居内に現存する。長く宮内庁音楽隊の練習場所であり補修もされていなかったが、2010年(平成22年)頃から復旧工事計画が進んでいる。
出典
- ^ a b 百科事典マイペディア
- ^ アジア歴史資料センター. “支那事変処理根本方針(昭和13年1月11日 御前会議決定)”. 2021年12月21日閲覧。
- ^ アジア歴史資料センター. “昭和15年(1940年)9月19日 第3回御前会議(議題:日独伊三国条約)”. 2021年9月27日閲覧。
- ^ アジア歴史資料センター. “昭和15年(1940年)11月13日 第4回御前会議(議題:支那事変処理、日満華共同宣言、日華基本条約)”. 2021年9月27日閲覧。
- ^ アジア歴史資料センター. “昭和16年(1941年)7月2日 第5回御前会議(議題:帝国国策要綱、南方施策、対英米政策)”. 2021年9月27日閲覧。
- ^ アジア歴史資料センター. “昭和16年(1941年)9月6日 第6回御前会議(決定:帝国国策遂行要領、対米英蘭戦準備を概ね10月下旬を目途に完整)”. 2021年9月27日閲覧。
- ^ アジア歴史資料センター. “昭和16年(1941年)11月5日 第7回御前会議(議題:対米交渉要綱(甲案・乙案)、帝国国策遂行要領))”. 2021年9月27日閲覧。
- ^ アジア歴史資料センター. “昭和16年(1941年)12月1日 第8回御前会議(議題:対米英蘭開戦決定)”. 2021年9月27日閲覧。
- ^ 戦史叢書66 1973, p. 26a.
- ^ “朽ちた「終戦聖断の場」…皇居「御文庫付属室」公開”. 読売新聞 (2015年8月1日). 2017年11月5日閲覧。
- ^ a b c 『陛下、お尋ね申し上げます』 1988 p.366
- ^ (テレビ番組)NHKスペシャル『御前会議~太平洋戦争開戦はこうして決められた~』. NHK. (1991年8月15日放映)
参考文献
- 高橋紘『陛下、お尋ね申し上げます 記者会見全記録と人間天皇の軌跡』文藝春秋〈文春文庫〉、1988年3月。ISBN 978-4167472016。
関連項目
外部リンク
御前会議
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8月9日には和平交渉の仲介役と頼りにしていたソ連が対日参戦し、その知らせを聞いた日本政府が対応を協議するため11時少し前に最高戦争指導会議を開催したが、その直後に長崎市への原子爆弾投下の報告があった。もはや事ここに至っては阿南もポツダム宣言を受諾することに反対することはなかったが、梅津参謀総長と軍令部総長豊田の3名で「国体の護持」「保障占領」「日本自身による武装解除」「日本による戦争犯罪の処分」の4条件を強く主張し、「国体の護持」のみに絞るとする東郷らと激しく対立した。阿南は特に皇室を護ることについて「ソ連は不信の国である。米国は非人道の国である。保証なく皇室を任すことは絶対に出来ない」と強く主張し、東郷からの4条件も呈示して交渉が決裂したらどうするのか?という質問に「一戦を交えるのみ」と答えている。 その一戦について、勝つ自信を米内から問われた阿南は激論を戦わせた。 阿南「戦局は5分5分、負けとは見てない」 米内「局所局所の武勇伝は別であるがブーゲンビル島の戦い、サイパンの戦い、レイテ島の戦い、ルソン島の戦い、硫黄島の戦い、沖縄戦皆然り、みな負けている」 阿南「海戦では負けているが戦争では負けていない。陸海軍で感覚が違う」 米内「勝つ見込みがあれば問題ない」 阿南「とにかく国体の護持が危険である。条件付きにて国体が護持できるのである。手足もがれては護持できない」 米内は開戦前の重臣会議で述べた「ジリ貧を恐れてドカ貧になることなかれ」という言葉の「ドカ貧」にすでに日本は陥っており、一刻も早く戦争終結をはかるべきと考えていたが、一方の阿南は海軍の艦艇がほぼ壊滅しているのに対して、陸軍は内外地に合計500万人の大兵力を有し、まだ本当の決戦を一度もしていない。本土決戦こそ、その決戦であり、国民もそのときには奮起するという陸軍側の考えを主張しており、2人の主張の隔たりは大きく、激しい議論となっていた。 会議は紛糾し、文部大臣の太田耕造が内閣総辞職すべきという意見を出した。阿南が太田に同調して辞職すれば、鈴木内閣を総辞職に追い込むこともできたが、阿南は太田に同調することはなかった。会議の途中に阿南と梅津に、陸軍中堅幕僚から突き上げを受けた河辺虎四郎参謀本部次長が面談に訪れ、全国に戒厳令を布告し、内閣を倒して軍事政権を樹立するというクーデター計画を進言したが、阿南は拒否した。また、海軍の軍令部次長の大西瀧治郎中将も阿南に面談を申し出ている。大西は海軍大臣の米内の意に反して軍令部総長豊田とともに徹底抗戦の説得活動を行っており、この面談でも「米内は和平ゆえに心許ない。陸軍大臣の奮戦を期待する」と阿南に期待するような発言があっているが、阿南は「承諾したが、海軍大臣の立場もあるので本件は聞かなかったことにしておく」と受け流している。 午後10時に7時間以上も費やして結論がでなかった閣議を鈴木は一旦散会した、そして休憩後に、もう1度最高戦争指導会議を開催して、政戦略の統一をはかることとしたが、その会議は鈴木と内閣書記官長迫水久常の手配で、昭和天皇も出席する御前会議となった。やがて宮中から御前会議開催の知らせを受けた阿南は内閣書記長室にやってきて、迫水を「御前会議を開くというが、これは違式ではないか」と問い詰めた。迫水は御前会議で天皇に発言させる予定であることを隠して「本日の会議は結論を出すという目的ではなく、実情をそのまま陛下に聞いていただくためのもの」と虚偽の回答をしたが、阿南はそれ以上は詮索することなく「そうか、それならよい」と納得して引きあげた。 午後11時50分に開始された御前会議において阿南は「本土決戦は必ずしも敗れたというわけではなく、仮に敗れて1億玉砕しても、世界の歴史に日本民族の名をとどめることができるならそれで本懐ではないか」という意見を述べ、梅津と豊田も賛同した。一方、東郷は終戦やむなきという意見を述べて、米内と平沼騏一郎枢密院議長が賛同した。一通り意見が出た後、深夜2時ごろに鈴木は自分の意見を言うことなく「意見の対立のある以上、甚だ畏れ多いことながら、私が陛下の思召しをお伺いし、聖慮をもって本会議の決定といたしたいと思います」と昭和天皇の意見を求めたため、一同にざわめきが起こった。軍関係者が驚いたのは、阿南が迫水から御前会議の開催目的について虚偽の説明を受けるなど、軍関係者にとって天皇の発言は全くの不意打ちだったからである。昭和天皇は身を乗り出すと「それならば私の意見を言おう。私は外務大臣の意見に同意である」「もちろん忠勇なる軍隊を武装解除し、また、昨日まで忠勤をはげんでくれたものを戦争犯罪人として処罰するのは、情において忍び難いものがある。しかし、今日は忍び難きを忍ばねばならぬときと思う。明治天皇の三国干渉の際のお心持ちをしのび奉り、私は涙をのんで外相案に賛成する」との“聖断”を下した。 聖断が下された御前会議が終了した後、「総理、この決定でよいのですか、約束が違うではないですか」と吉積正雄陸軍省軍務局長が鈴木に激しく詰め寄ったが、阿南はその様子を見て、何も言わずニコニコしている鈴木と吉積の間に割って入り「吉積、もうよい」と言ってたしなめている。また、陸軍出身で阿南とは同期の安井藤治国務大臣が「阿南、ずいぶん苦しかろう。陸軍大臣として君みたいに苦労する人はほかにないな」と慰めたところ、阿南は「自分はどんなことがあっても鈴木総理と最後まで事を共にするよ。どう考えても国を救うのはこの鈴木内閣だと思う」としっかりした口調で語っている。 翌8月10日、阿南は陸軍省各課の高級部員を招集して、難局に対する心構えを訓示した。「自分の微力には重々責任は感じている、だが私は主張すべきことは存分に主張した。諸君はこの阿南を信頼してくれているはずだ。このうえは一体となって、大御心のままに前進しよう」「厳格な軍規のもと、一糸乱れずに行動しよう。国家の危急に際しては、一人の無統制が国の破綻の因になる。光輝ある帝国陸軍の一員であることを忘れるな」といったような、聖断や終戦にはふれずに、陸軍の一致団結を強調した内容であった。阿南が一番恐れていたことは、陸軍の暴発であり、特に敗戦の実感がない150万人の支那派遣軍の動向であって、全陸軍をいかに聖断に従わせるか、阿南は苦心していくこととなった。阿南の真意を知らない一部の青年将校が「国体護持のため、たとえ草を食み、土をかじり、野に伏すとも断じて戦う」という「陸軍大臣布告」を勝手に作成し、阿南の決裁をとらずにマスコミに発表した。慌てた情報局総裁の下村からこの「陸軍大臣布告」を聞かされた阿南であったが、新聞への掲載中止を申し入れてきた下村に対して「いいのです。掲載してやってください。軍人とはそういうものなのです」と掲載を要請している。一途な青年将校を無理に抑え込めば暴発の懸念があると考えての、阿南に現時点でできる精一杯のことであった。 ルソン山中では阿南と同期の第14方面軍司令官山下が、優勢な連合軍相手に苦闘していたが、「楠公精神と時宗の決断とを以って敵を撃砕すべし」との激烈な「陸軍大臣布告」を受けて抗戦の意志を新たにしている。しかし、この「陸軍大臣布告」が阿南に無断で布告されたものとは知る由もなかった。
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