御前会議とは? わかりやすく解説

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御前会議

読み方:ごぜんかいぎ

国家重大な事項決定するための会議のこと。元々は、大日本帝国憲法下の日本で、天皇同席する場において、国にとって重大な事柄決めた会議のことを指す。現在では、会社組織において、上層部人間出席する会議のことを揶揄する表現として使用される

ごぜん‐かいぎ〔‐クワイギ〕【御前会議】

読み方:ごぜんかいぎ

明治憲法下で、国家重大事に関して天皇出席のもとに、重臣大臣などが行最高会議

比喩的に組織の上層部が出席する会議


御前会議

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/14 15:06 UTC 版)

第1回御前会議(1938年(昭和13年)1月11日)の様子。写真左より軍令部作戦部長近藤信竹少将、軍令部次長嶋田繁太郎中将、海軍大臣米内光政大将、軍令部総長伏見宮博恭王元帥海軍大将、昭和天皇、参謀総長閑院宮載仁親王元帥陸軍大将、陸軍大臣杉山元大将、参謀次長多田駿中将、参謀本部作戦部長下村定少将。

御前会議(ごぜんかいぎ、旧字体: 御前󠄁會議)とは、明治期から太平洋戦争終結時まで、国家の緊急の重大問題において天皇臨席のもとに元老、主要閣僚首脳が集まって行われた合同会議[1]。ただし法制上には規定はなかった[1]

概要

日清戦争前の広島大本営での御前会議。 中央 明治天皇、右端から川上操六大山巌伊藤博文、 左端から樺山資紀西郷従道山縣有朋有栖川宮熾仁親王

広義には、官制上天皇親臨が定められていた枢密院会議、また王政復古直後の小御所会議や、天皇臨席の大本営会議なども御前会議といえる。しかし、狭義には、戦争開始終了に関して開かれた、天皇・元老閣僚・軍部首脳の合同会議を指す。

1894年明治27年)に対開戦(日清戦争)を決定したのが最初。以後、三国干渉日露戦争などに際して開催され、1938年昭和13年)以後には日中戦争支那事変)の処理方針、日独伊三国同盟、対米英蘭開戦=真珠湾攻撃による太平洋戦争開戦、太平洋戦争終結などを決定した。

大日本帝国憲法第13条には、天皇が開戦と終戦を決定する事が明記されていたが、例えば「御前会議法」というような法制上の開催根拠がないなど、御前会議の開催は困難であった。また天皇による意思の表明・発動は(天皇自らにその責任が及ぶため)好ましくないとされ、たとえ出席しても一言も発しないことが多かった。

御前会議での決定は、即時でそのまま国家意思の決定となるのでなく、改めてその内容について正式の手続(例えば閣議)の諮問を経てから正式に決定された

構成員

日中戦争以後の御前会議

1938年(昭和13年)に復活して以降について記す。

開催日 議題 内閣 昭和天皇の発言等
1
1938年(昭和13年)
1月11日
支那事変処理根本方針[2] 第1次近衛内閣
2
1938年(昭和13年)
11月30日
日支新関係調整方針
3
1940年(昭和15年)
9月19日
日独伊三国同盟条約[3] 第2次近衛内閣
4
1940年(昭和15年)
11月13日
支那事変処理要綱に関する件ほか[4]
5
1941年(昭和16年)
7月2日
情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱[5]
6
1941年(昭和16年)
9月6日
帝国国策遂行要領[6] 第3次近衛内閣 明治天皇御製を詠む形で、対米開戦回避を示唆。
「よもの海 みなはらからと思ふ世に など波風のたちさわぐらむ」
7
1941年(昭和16年)
11月5日
対米交渉要綱(甲案・乙案)、帝国国策遂行要領[7] 東條内閣
8
1941年(昭和16年)
12月1日
対英米蘭開戦の件[8]
9
1942年(昭和17年)
12月21日
大東亜戦争完遂の為の対支処理根本方針
10
1942年(昭和17年)
12月31日
ガダルカナル島からの撤退と東北部ニューギニアへの作戦重点変換について[9]
11
1943年(昭和18年)
5月31日
大東亜政略指導大綱
12
1943年(昭和18年)
9月30日
今後採るべき戦争指導の大綱ほか
13
[注釈 1]
1944年(昭和19年)
8月19日
小磯内閣
14
1945年(昭和20年)
6月8日
今後採るべき戦争指導の基本大綱 鈴木内閣
15
1945年(昭和20年)
8月10日[注釈 2]
ポツダム宣言受諾の可否について 鈴木貫太郎から乞われる形で宣言受諾の意思表明(いわゆる聖断)。
16
1945年(昭和20年)
8月14日
ポツダム宣言受諾の最終決定 再度、宣言受諾の意思表明(再度の聖断)。

場所

1944年(昭和19年)の御前会議

御前会議は通常、明治宮殿車寄を入って右側にある「東一の間」などで開催された。しかし終戦直前の2回の御前会議は、「望岳台」近くの地下壕「御文庫附属庫」で行われた。地下10m、部屋の広さは15坪ほどであり、天皇・皇后の寝室・居間のある御文庫[注釈 3]からは90m離れており、地下道でつながっていた。1945年(昭和20年)には、大型爆弾にも耐えられるよう陸軍工兵隊が補強工事を行い[10]、附属庫での初めて枢密院本会議が、1945年(昭和20年)6月2日に開催された[注釈 4]

日英米開戦をめぐって

1941年(昭和16年)9月6日の第六回御前会議では、前述の通り、昭和天皇は祖父明治天皇御製を冒頭で引用した。この意図について、昭和天皇は1985年(昭和60年)4月15日の記者会見で次のように語った。

「会議の議題の第一議に戦争準備をすることが掲げられ、また、次に平和のための努力となっていましたが、私は平和努力と言うことが第一義になることを望んでいたので、明治天皇の御歌を引用したのです」[11]

天皇は、この前日に近衛文麿首相から帝国国策遂行要領の内奏(事前報告)を受けており、このとき天皇の回想と同様の発言があったと、近衛文麿側の手記にも記録がある[11]

当時陸軍省軍務局高級課員であった石井秋穂は、第一項に戦争、第二項に外交という記述をしたのは自分であると、後にNHKテレビ番組で証言している[12]

会議当日の杉山元陸軍参謀総長のメモ(杉山メモ)にも、平和的外交をするよう、天皇から命ぜられたと記録がある[11]

脚注

注釈

  1. ^ この回より、「御前に於ける最高戦争指導会議」の名称で開かれている
  2. ^ 通説では8月9日深夜に始まったとされていたが、『昭和天皇実録』において8月10日0時3分開始と確認された(昭和天皇実録:ポツダム宣言受諾、2・26… 分刻み、克明記録 研究手がかりに 毎日新聞 2014年9月9日)。
  3. ^ 1942年(昭和17年)12月31日竣工。建坪1320m2。当初1t爆弾に耐えられるようコンクリートと砂の3重構造で作られたが、後に6t爆弾に耐えられるよう補強された(『天皇裕仁と東京大空襲』 松浦総三 1994年)。
  4. ^ 枢密院は皇居内に現存する。長く宮内庁音楽隊の練習場所であり補修もされていなかったが、2010年(平成22年)頃から復旧工事計画が進んでいる。

出典

  1. ^ a b 百科事典マイペディア
  2. ^ アジア歴史資料センター. “支那事変処理根本方針(昭和13年1月11日 御前会議決定)”. 2021年12月21日閲覧。
  3. ^ アジア歴史資料センター. “昭和15年(1940年)9月19日 第3回御前会議(議題:日独伊三国条約)”. 2021年9月27日閲覧。
  4. ^ アジア歴史資料センター. “昭和15年(1940年)11月13日 第4回御前会議(議題:支那事変処理、日満華共同宣言、日華基本条約)”. 2021年9月27日閲覧。
  5. ^ アジア歴史資料センター. “昭和16年(1941年)7月2日 第5回御前会議(議題:帝国国策要綱、南方施策、対英米政策)”. 2021年9月27日閲覧。
  6. ^ アジア歴史資料センター. “昭和16年(1941年)9月6日 第6回御前会議(決定:帝国国策遂行要領、対米英蘭戦準備を概ね10月下旬を目途に完整)”. 2021年9月27日閲覧。
  7. ^ アジア歴史資料センター. “昭和16年(1941年)11月5日 第7回御前会議(議題:対米交渉要綱(甲案・乙案)、帝国国策遂行要領))”. 2021年9月27日閲覧。
  8. ^ アジア歴史資料センター. “昭和16年(1941年)12月1日 第8回御前会議(議題:対米英蘭開戦決定)”. 2021年9月27日閲覧。
  9. ^ 戦史叢書66 1973, p. 26a.
  10. ^ 朽ちた「終戦聖断の場」…皇居「御文庫付属室」公開”. 読売新聞 (2015年8月1日). 2017年11月5日閲覧。
  11. ^ a b c 『陛下、お尋ね申し上げます』 1988 p.366
  12. ^ (テレビ番組)NHKスペシャル『御前会議~太平洋戦争開戦はこうして決められた~』. NHK. (1991年8月15日放映) 

参考文献

関連項目

外部リンク


御前会議

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/17 08:24 UTC 版)

阿南惟幾」の記事における「御前会議」の解説

8月9日には和平交渉仲介役と頼りにしていたソ連対日参戦し、その知らせ聞いた日本政府が対応を協議するため11時少し前に最高戦争指導会議開催したが、その直後長崎市への原子爆弾投下報告があった。もはや事ここに至って阿南ポツダム宣言受諾することに反対することはなかったが、梅津参謀総長軍令部総長豊田の3名で「国体護持」「保障占領」「日本自身による武装解除」「日本による戦争犯罪処分」の4条件強く主張し、「国体護持」のみに絞るとする東郷らと激しく対立した阿南は特に皇室護ることについて「ソ連不信の国である。米国非人道の国である。保証なく皇室任すことは絶対に出来ない」と強く主張し東郷からの4条件呈示し交渉決裂したどうするのか?という質問に「一戦を交えるのみ」と答えている。 その一戦について、勝つ自信米内から問われ阿南激論戦わせた。 阿南戦局は5分5分、負けとは見てない」 米内局所局所武勇伝は別であるがブーゲンビル島の戦いサイパンの戦いレイテ島の戦いルソン島の戦い硫黄島の戦い沖縄戦然り、みな負けている」 阿南海戦では負けているが戦争では負けていない。陸海軍感覚が違う」 米内「勝つ見込みがあれば問題ない阿南「とにかく国体護持が危険である。条件付きにて国体護持できるのである手足もがれては護持できない米内開戦前重臣会議述べたジリ貧恐れてドカ貧になることなかれ」という言葉の「ドカ貧」にすでに日本は陥っており、一刻も早く戦争終結をはかるべきと考えていたが、一方阿南海軍艦艇がほぼ壊滅しているのに対して陸軍内外地に合計500万人大兵力を有し、まだ本当決戦一度もしていない本土決戦こそ、その決戦であり、国民そのときには奮起するという陸軍側の考え主張しており、2人主張隔たり大きく激し議論となっていた。 会議紛糾し文部大臣太田耕造内閣総辞職すべきという意見出した阿南太田同調して辞職すれば、鈴木内閣総辞職追い込むこともできたが、阿南太田同調することはなかった。会議途中阿南梅津に、陸軍中堅幕僚から突き上げ受けた河辺虎四郎参謀本部次長面談訪れ全国戒厳令布告し内閣倒して軍事政権樹立するというクーデター計画進言したが、阿南拒否したまた、海軍軍令部次長大西瀧治郎中将阿南面談申し出ている。大西海軍大臣米内意に反して軍令部総長豊田とともに徹底抗戦説得活動行っており、この面談でも「米内和平ゆえに心許ない陸軍大臣奮戦期待する」と阿南期待するような発言があっているが、阿南は「承諾したが、海軍大臣立場もあるので本件は聞かなかったことにしておく」と受け流している。 午後10時7時間以上も費やして結論がでなかった閣議鈴木は一旦散会した、そして休憩後に、もう1度最高戦争指導会議開催して政戦略統一をはかることとしたが、その会議鈴木内閣書記官長迫水久常の手配で、昭和天皇出席する御前会議となった。やがて宮中から御前会議開催知らせ受けた阿南内閣書記長室にやってきて、迫水を「御前会議を開くというが、これは違式ではないか」と問い詰めた。迫水は御前会議で天皇発言させる予定であることを隠して本日会議結論を出すという目的ではなく実情そのまま陛下聞いていただくためのもの」と虚偽回答をしたが、阿南それ以上詮索することなく「そうか、それならよい」と納得して引きあげた。 午後1150分に開始された御前会議において阿南は「本土決戦は必ずしも敗れたというわけではなく、仮に敗れて1億玉砕しても、世界の歴史日本民族の名をとどめることができるならそれで本懐ではないか」という意見述べ梅津豊田賛同した一方東郷終戦やむなきという意見述べて米内平沼騏一郎枢密院議長賛同した一通り意見出た後、深夜2時ごろに鈴木自分意見を言うことなく意見の対立のある以上、甚だ畏れ多いことながら、私が陛下の思召しお伺いし、聖慮をもって本会議決定いたしたい思います」と昭和天皇意見求めたため、一同にざわめき起こった軍関係者驚いたのは、阿南迫水から御前会議の開催目的について虚偽説明を受けるなど、軍関係者にとって天皇発言は全くの不意打ちだったからである。昭和天皇身を乗り出すと「それならば私の意見言おう。私は外務大臣意見同意である」「もちろん忠勇な軍隊武装解除しまた、昨日まで忠勤をはげんでくれたものを戦争犯罪人として処罰するのは、情において忍び難いものがある。しかし、今日忍び難きを忍ばねばならぬときと思う。明治天皇三国干渉の際のお心持ちをしのび奉り、私は涙をのんで外相案に賛成する」との“聖断”を下した聖断下された御前会議が終了した後、「総理、この決定でよいのですか、約束が違うではないですか」と吉積正雄陸軍省軍務局長鈴木激しく詰め寄ったが、阿南その様子を見て、何も言わずニコニコしている鈴木と吉積の間に割って入り「吉積、もうよい」と言ってたしなめている。また、陸軍出身阿南とは同期安井藤治国務大臣が「阿南、ずいぶん苦しかろう。陸軍大臣として君みたいに苦労する人はほかにないな」と慰めたところ、阿南は「自分はどんなことがあっても鈴木総理最後まで事を共にするよ。どう考えても国を救うのはこの鈴木内閣だと思う」としっかりした口調語っている。 翌8月10日阿南陸軍省各課の高級部員招集して、難局対す心構え訓示した。「自分微力には重々責任感じている、だが私は主張すべきことは存分に主張した諸君はこの阿南信頼してくれているはずだ。このうえは一体となって大御心のままに前進しよう」「厳格な軍規のもと、一糸乱れず行動しよう国家危急に際しては、一人の無統制が国の破綻の因になる。光輝ある帝国陸軍一員であることを忘れるな」といったような聖断終戦にはふれずに、陸軍一致団結強調した内容であった阿南が一番恐れていたことは、陸軍暴発であり、特に敗戦実感がない150万人支那派遣軍動向であって、全陸軍をいかに聖断従わせるか、阿南苦心していくこととなった阿南真意知らない一部青年将校が「国体護持のため、たとえ食み、土をかじり、野に伏すとも断じて戦う」という「陸軍大臣布告」を勝手に作成し阿南決裁をとらずにマスコミ発表した慌てた情報局総裁下村からこの「陸軍大臣布告」を聞かされ阿南であったが、新聞への掲載中止を申し入れてきた下村に対して「いいのです。掲載してやってください軍人とはそういうものなのです」と掲載要請している。一途な青年将校無理に抑え込めば暴発懸念がある考えての、阿南現時点でできる精一杯のことであったルソン山中では阿南同期第14方面軍司令官山下が、優勢な連合軍相手苦闘していたが、「楠公精神時宗決断とを以って敵を撃砕すべし」との激烈な陸軍大臣布告」を受けて抗戦意志新たにしている。しかし、この「陸軍大臣布告」が阿南無断布告されたものとは知る由もなかった。

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